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Joined August 2009
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【SNS上の性的な言動と、人間の尊厳について】日常の写真や、研究・実践についての発信を、本人の意思とは無関係に性的に解釈し、身体の一部を執拗に論評したり、私的な交友関係を性的な取引と結びつけたり、人格を侮辱したりする行為を、私は容認しません。
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今回のSNS上での議論には、実はもう一つ、これまでの社会保障論とは異なる側面が存在していた。私がMAKI.Sというアカウントから行っていた一連の返信は、その大部分を生成AIによって半自動化したもの。今回の仕組みでは、2010年代から蓄積してきた資料や論点、自分自身の実践経験、価値判断、そして議論を進める際の基本的な問いを、あらかじめAIが参照できる形で組み込んだ。 返信文の生成から投稿までの工程を半自動化した結果、2026年10月26日から27日にかけての約2日間、私という実存的な身体が、実際のやり取りに直接関与した時間は合計しても30分に満たなかった。今回の返信はMAKI.Sというアカウントから発信されており、AIを利用したことによって、アカウントの運用者としての私の責任が消滅するわけではない。 こうした技術を利用するための知識や環境を持つ人と、そうでない人との間には、すでに新しい格差が生じている可能性がある。余暇や仕事、研究、家事、休息などに振り向けられる時間そのものが変わってくるからである。 私たちは、SNS上で誰と対話しているのだろうか。そして、その相手を一人の人間として理解しているという認識は、何によって支えられているのだろうか。
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【重要】「お名前.com デスクトップクラウド」への不正アクセスに関する現在の対応について(第11報) 当社グループは、お客様の保護と二次被害の防止を最優先に、調査・対応を進めております。 あわせて、本事案に関する情報の不正な公開・拡散を控えていただくよう、お願い申し上げます。 ※公開された情報と称するものには、アクセスしたり、拡散したりしないでください。 当該サイトにアクセスした方の情報は、攻撃者に取得されていることを確認しています。 アクセスは絶対にお控えください。 既にアクセスした方は、ウィルス対策ソフトなどによるフルスキャンをお願いいたします。 ※二次被害防止の観点から、悪質性の高い情報拡散者に対しては、証拠保全の上、民事手続における開示請求、刑事告訴・刑事告発をはじめ法的措置の準備を進めております。 お客様保護のため、当社として毅然と対応する所存です。 ご注意:当社がパスワードや認証コードをお尋ねすることはありません。「被害金を取り戻す」など費用を求める連絡には応じないでください。 公開された情報にお客様の情報が含まれていることを確認した場合は、対象のお客様に個別にご連絡いたします。 報道関係者へのお願い 既にご承知のとおり、当社のお客様に関係すると思われる情報が攻撃者により公開されたことが確認されております。 お客様に二次被害をもたらしうる過度な報道はお控えくださいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。 このたびは、お客様をはじめ、関係する皆様に多大なご迷惑とご心配をおかけしておりますことを、あらためて心よりお詫び申し上げます。 詳細はこちら group.gmo/info/alert/2026102…
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武蔵大学と武蔵野大学と、武蔵野学院大学があることを知った夜。この前出た説明会は…
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賛否両論のマンガ。読まず嫌いもダメだと思って読んでみたけど..。うーん、内容の前に、現実感ない着こなしや服装にツッコミどころ多すぎ。男性向けだから?とりあえず、36歳にもなれば高校生なんて、一目で子どもってわかるでしょうに…という感想。ターゲットはアラフォー男性?終始よくわからない。
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あ、ダメだこれ。3巻とかフツーに性暴力シーンじゃん。無理。
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今日、生活保護をめぐって、さまざまな方と意見を交わしました。 「努力とは何か」「支えるとは何か」「自立とは何か」「社会への貢献とは何か」。私が繰り返し問いかけたのは、それぞれの言葉の定義と、誰が、何を基準に判断するのかということでした。 そのなかで、もう一つ考えたことがあります。なぜ私たちは、他者が社会保障を受けることを、自分自身が何かを奪われることとして理解してしまうのでしょうか。社会心理学には、相対的剥奪感やゼロサム思考、スティグマ、社会的カテゴリー化といった研究の蓄積があります。 自分は働いている。税金も納めている。それでも生活は苦しい。家に帰れば家事や育児があり、家賃や住宅ローンの支払いもある。努力しているつもりなのに、暮らしはなかなか楽にならない。そうした現実のなかで、他者が保障を受けることに不公平を感じる場合があるのかもしれません。 ただ、その不公平感は、本来、誰に向けられるべきものなのでしょうか。自分自身の生活条件や、それを形づくる雇用、賃金、税制、社会保障制度を変えることは容易ではありません。 一方で、「生活保護受給者」「精神障害者」といった、制度や社会によって名前を与えられた集団には、比較的容易に批判を向けられてしまう。そこでは、一人ひとりの名前も、生活史も、人間関係も見えなくなります。 もちろん、今回コメントされた方々が、実際にそうした心理で発言していたのかは分かりません。また、生活保護を批判する人が、必ずしも経済的に困窮しているとも限りません。ただ、解決されない生活上の不公平感が、別の誰かへの道徳的評価に置き換えられていくことはないだろうか、と考えたのです。 そして、その批判によって、本人の生活は本当に改善するのでしょうか。私は20年近く、生活に困窮する方々と関わってきました。生活保護を利用しながら法人の理事を務めていた人もいれば、自らの経験を生かして若者を支えている人もいます。私自身、生活保護を利用する方々に助けられることもあります。だから、生活保護利用者を一律に「弱者」と捉えることにも違和感があります。 経済的に困窮しているという状態は、その人の人格や能力、他者との関係性のすべてを規定するものではありません。そして、仮に誰かを助けることも、社会に貢献することもできない人がいたとしても、その人の尊厳が失われるわけではありません。 社会保障の財源は有限です。負担の公平性も、制度の持続可能性も、当然議論されるべきものです。しかし、財政上の課題を議論することと、特定の属性を持つ人々に、自分の生活の苦しさの原因を帰属させることは、別の問題でしょう。 今日、自転車を出そうとしたとき、トイレットペーパーを眺めていたおばあちゃんと目が合いました。「高くなりましたよねぇ」と話しかけ、いつの間にかチョコレートのバッカスまで値上がりしたという話になりました。 名前も知らない方でした。どんな仕事をしてきたのか、所得がどれくらいあるのか、どんな社会保障を利用しているのかも知りません。ただ、同じ社会で暮らす二人として、物価が高くなったねと話し、最後は「ありがとう」で別れました。 そこには、支える側も支えられる側も、努力した人も努力していない人も、ありませんでした。人と人として出会うことに、相手の属性を知る必要はなかったのです。私は、こうした何でもない日常の積み重ねを大切にしたいと思っています。 社会保障とは、誰かを特別扱いするためだけのものではなく、私たちがともに生きていくための社会的な仕組みでもあるはずです。 だからこそ、最後に一つ、問いを残したいと思います。自分の生活に苦しさを感じている人が、名前も知らない誰かを叩かなくても、その苦しさを社会に届けられる仕組みを、私たちはつくれているのでしょうか。 今日いただいたさまざまなご意見に、感謝しています。
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「生活保護から脱する前提でないとダメ」という発想そのものに、根本的な問題があります。生活保護は就労訓練制度ではありません。憲法25条に基づく生存権の保障であり、その目的は経済的自立だけではなく、日常生活や社会生活における自立も含みます。 「個室がある」「仕事を選べる」と説明しても、受給者を一律に特定の居住形態へ誘導し、食事、労働、貯蓄、退去まで制度側が設計するなら、そこに本人の自己決定はどれほど残るのでしょうか。施設を「社員寮」と呼び換えても、その問題は解消しません。そもそも、働ける人、働けない人、働きたくても働けない人を、なぜ同じ社会復帰モデルに当てはめるのでしょう。高齢者、障害者、疾病を抱える人、ケアを担う人など、生活の条件は一人ひとり異なります。 「3万円あれば十分」という判断も、他者の生活を外側から数値化する発想です。何を食べ、どこに住み、誰と関わり、自ら得た収入をどう使うか。その自由もまた、人間の尊厳に関わります。希望者への住居・就労支援には意義があります。しかし、支援とは人を制度の設計図に従わせることではありません。 人間の尊厳は、生産性や経済的自立の達成によって序列化されるものではない。生活保護から抜け出せなくても、その人の人生には等しく価値がある。支援する側の考える「望ましい人生」を、本人に押し付けてはならないのです。
だから生活保護の人たちはみんなグループホームみたいなところに住んでもらって、そこから作業所や工場にバス送迎したらいいと思う。 食事も全部食堂で賄えばいい。 そこで得た収入は全部貯めてもらう。 コストがかかるかもしれないけど、今の制度では生活保護から抜け出したいと思っても難しい。
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すみません。なにやら他のユーザー同士で揉め事が発生しているようなので、コメント欄閉じさせていただきます。
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そんなことより、自転車を出そうとしたら、トイレットペーパーを眺めるおばあちゃんと目が合った。値上がりの話から「バッカスも高い」とチョコの話に。名前も知らないまま、最後は「ありがとう」でお別れ。支援でも、何かの目的でもない。ただ、目の前の人と話した。そんな何でもない時間が好きだ。
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救護施設というのが既にありまして。
Replying to @19hz
逆に病気や高齢の為に生保から抜けられそうにない人が希望すれば入れるような、こういう施設があってもいいかな。貧困ビジネスの鴨になるよりいいし、孤独死が不安な人も落ち着けるかも。公立で世話人だか管理人だか配置して、さて、どの位費用かかるかね。
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ご意見ありがとうございます。私自身、20年近く、生活に困窮する方々に食料を届けたり、訪問して安否を確認したり、生活の相談に乗ったり、時には亡くなられた後の直葬まで関わってきました。もちろん成年後見人も受けております。そして生活保護が廃止された後も、お付き合いが続いている方々がいます。 ただ、それをもって「やることをやった」と胸を張るつもりはありません。そもそも、「やること」とは何でしょうか。金銭を提供することでしょうか。時間を費やすことでしょうか。経済的な自立を実現させることでしょうか。それとも、最後まで関わり続けることでしょうか。 そして、その基準は誰が決めるのでしょうか。また、仮に私が一度も個人的な支援をしていなかったとしても、生活保護制度や人間の尊厳について考え、意見を述べることは許されないのでしょうか。 私は、個人が誰かを支える営みと、社会が制度として人々の生活を保障することは、区別して考える必要があると思っています。長く関わってきたからこそ、今もなお「支えるとは何か」が分からず、考え続けています。 今日はさまざまな立場の方からご意見をいただき、多くのことを考える機会になりました。これで本日の返信は最後にいたします。皆さま、ありがとうございました。
Replying to @19hz
文句言う貴方が個人的に支援してやれよ、やる事やってから偉そうにしたらいい
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何度もお返事をいただき、ありがとうございます。やり取りを重ねるうちに、少し別のことも考えるようになりました。 「努力が見えない」というお話ですが、もしかすると、生活保護を利用している人以外にも、努力しているのに報われない、あるいは自分の負担や苦労が十分に認められていないと感じることも、この問題の背景にはあるのでしょうか。 ただ、人は誰でも、自分がしてきたことを誰かに認めてもらいたいと思うことがあるのでしょうし、支える立場にある人にも、さまざまな苦しさや不公平感があるのだと思います。そう考えると、努力をすることと、努力を誰かに認めてもらうことは、やはり別の問題のように思えてきました。 私自身、これまで努力してきたという自覚はあまりありません。その時々に興味のあることを見つめてきただけです。だから、なおさら他者の努力をどう評価すればよいのか分からないのです。そして、支える側の苦しさを理解することと、支えられる側に努力の証明を求めることは、必ずしも同じではないと思っています。 誰かの努力が見えないとき、私たちは何を見て、何を見落としているのでしょうね。これは生活保護を利用する方だけではなく、私自身にも向けた問いなのだと思います。ありがとうございます。
Replying to @19hz
あのね、努力っいうのは自分から出てくる物ね。SNSをやっいる保護者達にそれが感じられないって話してるの。仏教とか半端な知識で話してくるけど、仏教が生まれた時代に生活保護があったとおもう?今は生活保護という救いがあるかもしれないが当時ならのたれ死ぬんだよ。
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ご意見ありがとうございます。今度は「支えるとは何だろう」と、また考え込んでしまいました。 私は政治的にはむしろ保守に属する人間だと認識しています。かつては日本会議に連なる団体にも所属し、長く自民党員でもあります。ですから、今回の議論をリベラルか保守かという政治的立場で捉えたことはありません。 また、おそらく平均より納税もしていますし、仕事でも生活保護を利用する方々と長く関わってきました。食料を持って訪問し、安否を確認し、生活の相談を受け、時には亡くなった後の納骨まで関わることもあります。では、私は「支える側」なのでしょうか。納税することが支えることなのか。食料を届けることなのか。話し相手になることなのか。それとも、制度そのものを維持することなのでしょうか。 一方で、そうした関わりを通じて、私自身が相手から何かを教わったり、支えられたりすることもあります。そう考えると、支える側と支えられる側を、どこで分ければよいのか分からなくなります。 もちろん、「自分ばかりが負担している」「誰かに寄りかかられている」と感じる方の不公平感や負担感も、無視してよいものではないと思います。その感覚がどこから生じるのか、制度的に何を改善できるのかは、考える必要があるでしょう。 ただ、その不公平感を解消するために、生活保護を利用する人に努力の証明や経済的自立を求めることが、果たして適切なのかという疑問は残ります。そもそも、私たちは人生のどこかで、誰かを支え、別の場面では誰かに支えられているのではないでしょうか。「支えている側も等しく見ていない」とのご指摘についても考えたいのです。 だからこそ、まずお尋ねしたいのですが、ここでおっしゃる「支える」とは、具体的にどのような行為や関係を指しているのでしょうか。そして、その「支える側」と「支えられる側」は、本当に明確に区別できるものなのでしょうか。
言っていることは法設計の要で正しいとは思う。 けど、支えている側の視点がほぼ無い。 コレでは日頃から寄りかかられていると感じている側に全く響かない、意味がない。 所謂リベラル系が賛同され辛い要点をこれでもか、と詰め込んだポストですね。 支えている側も等しく見ていない。
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MAKI.S retweeted
生活保護手帳、別冊問答集…届いた!2025版は事務所に置いてあるから比較できんけど、2024→2026で50ページ増えとる。それだけ改正もあるんだろうなと。
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ご意見ありがとうございます。ただ、純粋に疑問なのですが、私のどの発言から「生活保護から一生抜け出せない」「就労訓練をしても無駄」「今のままでよい」と考えていると読み取られたのでしょうか。 私は、そのようなことを一度も述べていないと思うのです。現に、私の友人にも4月に生活保護が廃止となった人がいますし、長年関わってきた若者たちのなかにも、勤労収入によって生活保護が廃止となった人が何人もいます。昔お付き合いしていた方も生活保護を利用して、その後は勤労収入が保護費を上回り廃止(ひとり親の廃止理由の一位ですよね)。その後も、人としての付き合いは続いています。 私は、生活保護を利用する人が経済的に自立する可能性を否定したことはありません。むしろ、その過程にも実際に関わってきました。 ただ、経済的自立を実現できることと、それをすべての人に一律に求めることは、別の問題だと考えています。そして、生活保護から抜け出せた人にも、抜け出せない人にも、等しく尊厳がある。それだけのことなのです。 また、「同じ人間として見ているから不満がある」というお考えも、興味深く拝読しました。ただ、同じ人間として見るということは、相手の人生や選択、置かれた環境を、自分とは異なるものとして尊重することでもあるのではないでしょうか。 私は、生活保護の利用者を「最底辺」と位置づけたこともありません。そもそも、人間を所得や就労能力によって上下に序列化する発想を持っていません。ですから、なぜそのような解釈に至ったのか、純粋に知りたいのです。 それは私が述べた意見なのでしょうか。それとも、私の発言から想像された、あなたご自身の解釈なのでしょうか。どの言葉からそう読み取られたのか、具体的に教えていただけるとありがたいです。
Replying to @19hz
生活保護反対派は、少なくとも同じ人間として見てる。見てるから不満もあるし、働けるやろう。って考えてる。今病気なら治して復帰を歓迎するでしょう。 貴方は生活保護者を生活保護から一生抜け出せない最低辺で、就労訓練しても無駄だから、と考えてるから、今のままで良いと。
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ご意見を拝読してから、純粋に「努力とは何だろう」と考え込んでしまいました。努力とは、苦労することでしょうか。長い時間を費やすことでしょうか。それとも、勤労によって収入を得ることでしょうか。 例えば、同じ8時間働いていても、その人の身体的・精神的な状態や、置かれた環境によって必要な労力は異なります。また、懸命に求職活動を続けても就職できない人もいれば、比較的容易に仕事を得られる人もいます。そう考えると、努力を何によって測定すればよいのか、私には分からなくなってしまうのです。 そもそも、私自身、これまでの人生で特別に努力してきたという自覚があまりありません。その時々に興味を持ったこと、気になったこと、自分なりに考えてみたいと思ったことを、ただ見つめ、向き合ってきただけなのです。それが他者から努力と評価されることがあったとしても、自分ではそう捉えていません。だからこそ、なおさら「努力」とは何を指すのか、分からなくなります。 さらに「努力が見えない」ということと、「努力していない」ということは、必ずしも同じではないと思います。そもそも、努力を他者に見せる必要があるのでしょうか。 仏教には「縁起」という考えがありますよね。人の生き方や境遇も、本人の意思だけではなく、さまざまな条件や関係性のなかで成り立っていると考えるなら、経済的な自立を果たせたかどうかだけで、その人の努力を判断することは難しいように思うのです。もちろん、生活保護から抜け出したいと願う人を支える仕組みは必要です。しかし、そこから抜け出せない人、あるいは抜け出すことを当面の目標にできない人については、どう考えればよいのでしょう。 そして、最初のご提案に戻るのですが、なぜ生活保護から「脱する前提」でなければならないのでしょうか。 私は、努力することの価値を否定したいわけではありません。ただ、努力をどのように定義し、誰が評価するのか。そして、他者が納得するだけの努力を示せなければ、生きるための保障を受ける正当性まで疑われるのか。そのあたりが、どうしても分からないのです。
Replying to @19hz
今の時代身体が不自由でもお金を稼げる時代です。憲法を盾に生存権とか言いますが、努力が見えないからSNSで叩かれるんだと思います。努力した結果生活保護が必要なら国民は納得するでしょう。なんの努力せず、権利だけを掲げるのはいかがなものか。そんな事も理解できませんか?
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