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民事再生のプレパッケージ型でライブドアを買収した話や、同人誌サイトを廉価で買収して、今は、GEO傘下で大成長している話とか、ライブドア証券の買収の先見性とか。堀江さん世代が、孫さんに追いつけない理由も、示唆に富んだ良いお話です。
@takapon_jp
本日22時配信
newspicks.com/live-movie/926…
【今日の1000字】
「正義のために、ジャーナリストは魂を売るのか」
箕輪厚介さんが、週刊誌との裁判で第一審勝訴の判決を得た。不倫疑惑を報じた『FLASH』を相手に起こした裁判で、東京地裁は55万円の賠償と記事の削除を命じたらしい。
もちろん、まだ地裁判決であり、今後判断が変わる可能性はあるが、興味深い判決である。
このニュースを聞いて、箕輪さんと元週刊文春記者の赤石晋一郎さんの対談を思い出した。そこで語られたのが、週刊誌の奇妙なビジネスモデルである。
赤石さんは、ゴシップで収益を上げるからこそ、費用のかかる政治家の不正追及などができる、と説明していた。しかも、ゴシップ取材は自分でも積極的にやりたい仕事ではなく、面白いとも思わないという趣旨の話までしていた。
なるほど。経営者の端くれとして、その理屈はよくわかる。
半年間、不正を追いかけても記事にならなければ売上はゼロ。一方、有名人の不倫なら雑誌が売れ、ネットのアクセスも稼げる。儲かる仕事で、儲からない仕事を支える。どこの会社でもやっていることである。
しかし、ここには決定的な違いがある。その儲かる仕事が、他人の私生活を商品にすることだという点である。
自分でも面白いと思わない仕事で、他人の人生を傷つけるかもしれない。それでも金になるからやる。その利益で社会正義を追求する。それはジャーナリストとしての魂を売っていることにならないのだろうか。
例えば、慈善事業のために他人の財産を勝手に売り払う会社があったら、誰も褒めない。いくら使い道が立派でも、金の集め方まで正当化されるわけではない。ゴシップの対象となった個人も、政治の不正を暴くための資金提供に同意した覚えはないだろう。
ずいぶん都合のよい寄付制度である。
さらに対談で赤石さんが持ち出したのが、アメリカのゴシップメディア「Gawker」の事件だった。2016年、元プロレスラーのハルク・ホーガン氏によるプライバシー侵害訴訟を、PayPal共同創業者のピーター・ティール氏が資金面で支援。巨額の賠償評決を受け、Gawkerは経営破綻した。
赤石さんは、箕輪さんらが被害を訴える人の訴訟を支援する動きについても、報道を萎縮させかねないと懸念していた。
確かに、資金力を使って訴訟を乱発し、正当な調査報道を封じる危険はある。しかし、権利を侵害された個人が司法に救済を求めることまで、報道への攻撃なのだろうか。
今回、裁判所は記事のプライバシー侵害を認めた。裁判所は、報道という看板がついていれば何でも許すほど愚かではないし、訴えられたというだけで報道を否定するほど愚かでもない。政治家の汚職や企業の不正など、公益性の高い報道なら、その必要性も含めて判断するだろう。
もちろん、裁判に対応する費用や時間だけで報道が萎縮する危険は残る。だが、それは不当な訴訟をどう防ぐかという問題であり、被害者が声を上げることを非難する理由にはならない。むしろ萎縮するのが公益性の乏しいゴシップなら、それは悪いことなのか。
そして私が注目するのは、今回の判決が週刊誌の損益計算書に与える影響だ。55万円の賠償以上に、記事削除の意味は大きい。金を払って記事を残し、アクセスを稼ぎ続けるという選択肢が、今回の判断では認められなかった。
訴訟支援が広がり、削除や賠償、裁判対応が増えれば、ゴシップの採算は変わる。もちろん、今回の地裁判決がゴシップ全般を否定したわけではない。それでも同様の判断が積み重なれば、従来の収益モデルは見直しを迫られるだろう。
そうなると問われるのは、報道の倫理だけではない。
ゴシップで稼げなくなったとき、社会に必要な調査報道を、誰が、どうやって支えるのか。NHK的な公共性を持ったメディアが権力を監視するために国民からの資金で調査報道を担保するというのも、ひとつかもしれない。
いずれにしても、他人の私生活を売らなければ正義を守れないというのなら、見直すべきは正義ではなく、その商売の仕組みの方ではないだろうか。
【今日の1000字】
「完璧な経営者の器用すぎた謝罪」
GMOの熊谷さんの記者会見を見た。世間では随分と評判が悪いらしい。ネット業界を牽引してきた敏腕経営者がなぜ批判されているのか、どうにも腑に落ちず、しばらく眺めていた。
なるほど、と思った。
あまりに立派であろうとしすぎたのである。
理由は二つある。
まず、虚勢を張っているように見えてしまったことだ。
謝罪会見というのは、実に妙な見世物である。記者は粗を探し、視聴者は腹の底を覗こうとする。立派な説明より、どれほど申し訳なさそうにしているかが値踏みされる。私はそんな風習を好まないが、世間というものは、そういうところがある。
熊谷さんは従業員を「パートナー」と呼び、フラットな組織を説く。言葉遣いも丁寧で、記者を名前で呼び、「ご回答になっていましたか?」とまで添えて答える。
その徹底した丁寧さは、普段なら感心するところだろう。ところが謝罪会見では、立派に振る舞えば振る舞うほど、何かを取り繕っているように見えてしまう。
おまけに、自ら司会まで務め、社員に資料の準備を急がせ、「ちゃんとボタン閉めて」と公衆の面前で注意する。
細部まで目が届く、頼もしい親分なのだろう。しかし、フラットな組織を説く人が部下のボタンを注意するものだから、見ている方は妙な気持ちになる。立派な理念より、たった一つのボタンの方が、その会社の風景を雄弁に語ってしまった。
頭を下げる姿さえ、何秒下げればよいか心の中で数えているように見えてくる。もちろん、そんなことを考えていたとは限らない。そもそも頭を下げる秒数で誠意を測る方がおかしい。
しかし、一度虚勢を張っていると思われると、何をしても演技に見えてしまう。人の心とは、まことに始末が悪い。
もう一つは、論理と感情を分けすぎたことだ。
熊谷さんは自社の問題への謝罪と、今後のセキュリティ業界のあり方について、会見を二部構成にし、何度も「これは個人的な意見」と断っていた。
実に正しい。経営会議なら満点である。
ところが謝罪を聞きに来た人間は、そんなに器用ではない。いくら別の話だと言われても、「自分の会社の不始末なのに、もう業界の話か」と受け取ってしまう。
本人は論理を二つに分けたつもりでも、見る側の感情には仕切り板などないのである。
熊谷さんは、経営者としての能力を磨き続けてきた人なのだろう。細部まで気を配り、論点を整理し、何事も完璧に仕上げようとする。その努力が今日のGMOを築いたのだと思う。
だが、謝罪会見は経営会議ではない。
司会は他人に任せ、聞かれたことに淡々と答え、業界への提言は後日にすればよかった。そうすれば、誠実さも、もう少し素直に伝わったのではないか。
結局、謝罪会見というものは、圧倒的に負けなければならないのである。
記者に言い負かされ、世間に頭を下げ、反論もせずに引き下がる。勝敗を決めること自体が茶番なのだが、そこで少しでも勝とうとすると、かえって大負けする。
自信は虚勢に、几帳面さは威圧に、正論は言い訳に変わってしまうのだ。
人間は正しい話を聞いて納得するとは限らない。納得した人間の話だから、正しいと思うことがほとんどだ。
完璧を目指してきた経営者が、最後に手を焼くのは、そういう不完全な人間たちなのだろう。
三戸政和・事業投資家/テレビ・ラジオMC/作家 retweeted
Replying to @310JPN
成長が大きいほど失敗も大きくなるので、守りは攻めと同じ重さで考えたいですよね。勢いのある時期に整えておくと、あとで効いてきますね🔥
スターバックスのドライブスルーで、飲み終えた他社のカップを捨ててほしいとお願いしたら、「スタバのカップ以外は受け取れません」と断られた。
ドライブスルーで買った客がわざわざ店舗に戻って捨てるわけもなく、スタバのカップだって他所で捨てられている訳で。自社が生み出したゴミを社会に処理してもらいながら、他社のゴミは受け取らない。
ゴミを排出する企業としての社会的責任をどう考えているんですかね。
補足、第二弾です。
【今日の1000文字】
「ゴミ箱が消えた国の、立派な人々」
先日、スターバックスのドライブスルーで、飲み終えた他社のカップを捨ててもらえないかと頼んだら断られた。飲み物を売る企業は、飲み終えた後のゴミについても責任を考えるべきではないか。
そう書いたら、「自分のゴミくらい家まで持ち帰れ」と、手厳しいお叱りをいただいた。
ごもっともである。
道端に捨てるより、家まで持ち帰る方が立派に決まっている。ただ私は、持ち帰る人を批判した覚えはない。どうすれば、そもそも持ち帰らずに済む社会をつくれるのか、と聞いているのである。
海外を歩くと、街角のゴミ箱の多さに気づく。
パリには約2万9,000基、ニューヨークには約2万2,000基の公共ゴミ箱があるという。日本全国のコンビニは約5万6,000店だから、パリ一都市だけでその半分ほど。しかもパリ市の面積は約105平方キロメートル、日本の国土は約37万8,000平方キロメートルで約3,600倍。
都市と全国を単純比較できないにせよ、発想の違いは鮮やかだ。パリではゴミ箱が街の備品であり、日本ではゴミを持ち歩くことが市民の心得になっている。
昔の日本にも、今よりゴミ箱があった。
1995年の地下鉄サリン事件を機に駅などで撤去が進み、警備や管理の事情も重なって減っていった。若い世代には、最初からゴミ箱のない街が当たり前なのかもしれない。だが、ここ30年ほどで変わった仕組みを、日本古来の美徳と取り違えてはいけない。
不思議なのは、その後である。
ゴミ箱がないから持ち帰る。すると、いつしか持ち帰ることが美徳となり、ゴミ箱を置いてくれと言う方が道徳の授業を受ける羽目になった。日本人というのは、まことに辛抱強い。
自分のことは自分でやれ。
清潔さも、他人に迷惑をかけまいとする心も、私は素晴らしいと思う。しかし、我慢する人を褒めるあまり、我慢させる仕組みを疑わなくなってはいないか。
例えば、学校は、各家庭が教師を雇うより、子供を集めて教える方が合理的だ。警察や消防も、各家庭で一隊ずつ抱えるわけにはいかない。税金を出し合い、共同で担うのは、効率だけでなく公平さや安全を守るためでもある。
個人に任せる範囲を賢く決める。公共の知恵は、そこにある。これが行政サービスである。
民間のイノベーターにも似た発想がある。オープンAIのサム・アルトマンは、家庭のパソコンに貴重なメモリーや計算資源が眠っている非効率を指摘した。
ならばデータセンターに集め、必要な人がクラウドで利用する。そうした全体最適の思想が、ChatGPTのようなサービスを生む発想にもつながったのだろう。
イーロン・マスクのテスラは逆に、散らばった資源をつなぐ。家庭の太陽光発電と蓄電池を電力網で結び、電気が必要な時間に融通する。何千軒もの小さな蓄電池を、ひとつの発電所のように動かす「仮想発電所」だ。
電力需要の山をならし、発電設備や送電網の負担を減らす。自動車を売るだけではない、テスラのエネルギー事業の肝である。発電した電気を無駄にせず、必要なところへ届ける。
これも、我慢より仕組みで解決する発想だ。
集めるか、つなぐか。方法は違っても、目の前の一軒ではなく、全体の無駄を見ている。
ゴミも同じだ。100人がそれぞれ家まで運ぶのと、適切な場所でまとめて回収するのと、費用や環境負荷はどちらが小さいか。個人にとって無料に見える持ち帰りにも、時間と移動の負担がある。
実際に、渋谷区は、持ち帰りの啓発だけでは限界があるとして、対象店舗にゴミ箱の設置を義務づけた。
売る企業が費用を負担し、回収を共同で行うことになれば、容器を減らし、マイボトルを使いたくなる工夫をする。知恵の使いどころはいくらでもある。誰が費用を払うかと、誰が回収するのが合理的かは、別々に考えればよい。
家までゴミを持ち帰る人は立派だ。だが、持ち帰らなくても誰も困らず、社会全体の費用も環境負荷も減らせるなら、それが新しい道徳になるだろう。
目の前の一人の行儀ばかり見て、世の中全体の効率を悪くするのは、何とももったいない話である。
【今日の1000文字】
「ゴミ箱が消えた国の、立派な人々」
先日、スターバックスのドライブスルーで、飲み終えた他社のカップを捨ててもらえないかと頼んだら断られた。飲み物を売る企業は、飲み終えた後のゴミについても責任を考えるべきではないか。
そう書いたら、「自分のゴミくらい家まで持ち帰れ」と、手厳しいお叱りをいただいた。
ごもっともである。
道端に捨てるより、家まで持ち帰る方が立派に決まっている。ただ私は、持ち帰る人を批判した覚えはない。どうすれば、そもそも持ち帰らずに済む社会をつくれるのか、と聞いているのである。
海外を歩くと、街角のゴミ箱の多さに気づく。
パリには約2万9,000基、ニューヨークには約2万2,000基の公共ゴミ箱があるという。日本全国のコンビニは約5万6,000店だから、パリ一都市だけでその半分ほど。しかもパリ市の面積は約105平方キロメートル、日本の国土は約37万8,000平方キロメートルで約3,600倍。
都市と全国を単純比較できないにせよ、発想の違いは鮮やかだ。パリではゴミ箱が街の備品であり、日本ではゴミを持ち歩くことが市民の心得になっている。
昔の日本にも、今よりゴミ箱があった。
1995年の地下鉄サリン事件を機に駅などで撤去が進み、警備や管理の事情も重なって減っていった。若い世代には、最初からゴミ箱のない街が当たり前なのかもしれない。だが、ここ30年ほどで変わった仕組みを、日本古来の美徳と取り違えてはいけない。
不思議なのは、その後である。
ゴミ箱がないから持ち帰る。すると、いつしか持ち帰ることが美徳となり、ゴミ箱を置いてくれと言う方が道徳の授業を受ける羽目になった。日本人というのは、まことに辛抱強い。
自分のことは自分でやれ。
清潔さも、他人に迷惑をかけまいとする心も、私は素晴らしいと思う。しかし、我慢する人を褒めるあまり、我慢させる仕組みを疑わなくなってはいないか。
例えば、学校は、各家庭が教師を雇うより、子供を集めて教える方が合理的だ。警察や消防も、各家庭で一隊ずつ抱えるわけにはいかない。税金を出し合い、共同で担うのは、効率だけでなく公平さや安全を守るためでもある。
個人に任せる範囲を賢く決める。公共の知恵は、そこにある。これが行政サービスである。
民間のイノベーターにも似た発想がある。オープンAIのサム・アルトマンは、家庭のパソコンに貴重なメモリーや計算資源が眠っている非効率を指摘した。
ならばデータセンターに集め、必要な人がクラウドで利用する。そうした全体最適の思想が、ChatGPTのようなサービスを生む発想にもつながったのだろう。
イーロン・マスクのテスラは逆に、散らばった資源をつなぐ。家庭の太陽光発電と蓄電池を電力網で結び、電気が必要な時間に融通する。何千軒もの小さな蓄電池を、ひとつの発電所のように動かす「仮想発電所」だ。
電力需要の山をならし、発電設備や送電網の負担を減らす。自動車を売るだけではない、テスラのエネルギー事業の肝である。発電した電気を無駄にせず、必要なところへ届ける。
これも、我慢より仕組みで解決する発想だ。
集めるか、つなぐか。方法は違っても、目の前の一軒ではなく、全体の無駄を見ている。
ゴミも同じだ。100人がそれぞれ家まで運ぶのと、適切な場所でまとめて回収するのと、費用や環境負荷はどちらが小さいか。個人にとって無料に見える持ち帰りにも、時間と移動の負担がある。
実際に、渋谷区は、持ち帰りの啓発だけでは限界があるとして、対象店舗にゴミ箱の設置を義務づけた。
売る企業が費用を負担し、回収を共同で行うことになれば、容器を減らし、マイボトルを使いたくなる工夫をする。知恵の使いどころはいくらでもある。誰が費用を払うかと、誰が回収するのが合理的かは、別々に考えればよい。
家までゴミを持ち帰る人は立派だ。だが、持ち帰らなくても誰も困らず、社会全体の費用も環境負荷も減らせるなら、それが新しい道徳になるだろう。
目の前の一人の行儀ばかり見て、世の中全体の効率を悪くするのは、何とももったいない話である。
正しく理解していただけたない方がかなりいますので、下記、補足説明をしています。
【今日の1000字】
「スタバが他社のゴミを断るのは、本当に正しいのか」
先日、スターバックスのドライブスルーで、車内にあった「他社の空きカップを捨ててほしいとお願いしたところ断られた」という話をXに投稿した。
すると、「他社のゴミまで引き取る義務はない」「自分のゴミは自分で捨てろ」「店員にそんなことを頼むのがおかしい」といった批判をいただいた。
なるほど。では、そういう方々に聞いてみたい。
他のコンビニで買った商品のゴミを、別のコンビニのゴミ箱に捨てたことはないのだろうか。自販機で買った飲み物の空き缶は、その場で飲み終えて捨てるのか、それともわざわざ家まで持ち帰っているのだろうか。
すでに回収の仕組みがあるところでは当たり前に利用し、仕組みがないところでは店のルールを絶対視する。その先にある社会の制度設計を考えようとしない。
私が問題にしたいのは、店員の親切心ではなく、業界全体の責任である。
店が回収したゴミは、原則として事業者が費用を負担して処理するから、事業者からすれば高額の費用となる。一方、客が自宅に持ち帰れば、自治体が税金で処理する羽目になる。
つまり、その商品を一度も買わない人まで、ゴミの処理費用を負担しているのである。もちろん、一般ゴミで捨ててもらえれば、事業者は利益を出しやすい。
環境省によれば、2024年度の一般廃棄物処理事業経費は約2.4兆円。国民一人当たり約2万円に相当する。もちろん飲料容器だけの費用ではないが、企業が生み出すゴミの後始末を社会全体で担っていることは、もっと議論されてよい。
やや余談だが、日本はゴミ箱が少ない。観光庁の調査でも、訪日外国人の17.2%がゴミ箱の少なさを不便に感じている。
日本人はゴミを持ち歩き、捨てる場所を探し、自宅まで持ち帰る。近くのコンビニで捨てている人も多いだろう。
仮に、毎日1,000万人がそのために余分な1分を使えば、年間約6,083万時間。時間価値を2,000円とすれば約1,217億円になる。もちろん仮定の計算だが、企業の帳簿には表れない社会的コストも無視できない。
では、どうすればよいのか。
私は、使い捨て容器を大量に提供する企業が、業界横断で回収と処理の仕組みを作るべきだと思う。
飲料自販機業界では、他社の自販機が並ぶ場所でも関係者が回収方法や責任を協議する自主ガイドラインがある。家電リサイクル法では、小売業者の引き取りとメーカーの再商品化が制度化されている。
EUでは、2026年に8月から使い捨てプラスチック製の飲料カップなどについて、生産者に公共の回収やポイ捨てごみの清掃費用を負担させる制度ができた。
一方、日本の容器包装リサイクル法にも事業者の費用負担はあるが、まだまだ回収・処理のすべてを賄う仕組みにはなっていない。
スターバックス、マクドナルド、コンビニなどが共同で回収団体を作り、容器の数量や材質に応じて費用を負担する。店頭ではブランドを問わず同種の容器を回収し、処理は専門業者に委託すればよい。
重要なのは、事業者がゴミを出せば出すほど、その事業者に負担が増える仕組みにすることだ。
そうなれば、どうすればマイボトルを持参してもらえるか、事業者も本気で知恵を絞るだろう。
マイボトル持参者への大胆な値引き、ドライブスルーでも手間なく利用できる仕組み、別店舗でも返却できる共通のリユースカップ。
企業にゴミの処理費用を負担させる最大の意味は、ゴミを回収させることではなく、ゴミを出さない知恵を生み出させることにある。
費用は、商品価格に転嫁されるべきだろう。その商品を買う人が、容器の後始末まで含めた価格を負担する方が、買わない人の税金に頼るより筋が通る。
ドライブスルー業界も、法律で義務づけられる前に、自主的な共同回収の仕組みを考えるべきだろう。
「他社のゴミを引き取る義務はない」。それは現行のルールとしては正しい。
しかし、現時点で正しい局地的なルールと、望ましい社会の仕組みは同じではない。
日本人が几帳面にゴミを持ち帰るからといって、企業がいつまでもその善意に甘えてよいわけではない。
後始末まで考えてこそ、社会と共存できる持続可能な商売となるのだろう。
【今日の1000字】
「スタバが他社のゴミを断るのは、本当に正しいのか」
先日、スターバックスのドライブスルーで、車内にあった「他社の空きカップを捨ててほしいとお願いしたところ断られた」という話をXに投稿した。
すると、「他社のゴミまで引き取る義務はない」「自分のゴミは自分で捨てろ」「店員にそんなことを頼むのがおかしい」といった批判をいただいた。
なるほど。では、そういう方々に聞いてみたい。
他のコンビニで買った商品のゴミを、別のコンビニのゴミ箱に捨てたことはないのだろうか。自販機で買った飲み物の空き缶は、その場で飲み終えて捨てるのか、それともわざわざ家まで持ち帰っているのだろうか。
すでに回収の仕組みがあるところでは当たり前に利用し、仕組みがないところでは店のルールを絶対視する。その先にある社会の制度設計を考えようとしない。
私が問題にしたいのは、店員の親切心ではなく、業界全体の責任である。
店が回収したゴミは、原則として事業者が費用を負担して処理するから、事業者からすれば高額の費用となる。一方、客が自宅に持ち帰れば、自治体が税金で処理する羽目になる。
つまり、その商品を一度も買わない人まで、ゴミの処理費用を負担しているのである。もちろん、一般ゴミで捨ててもらえれば、事業者は利益を出しやすい。
環境省によれば、2024年度の一般廃棄物処理事業経費は約2.4兆円。国民一人当たり約2万円に相当する。もちろん飲料容器だけの費用ではないが、企業が生み出すゴミの後始末を社会全体で担っていることは、もっと議論されてよい。
やや余談だが、日本はゴミ箱が少ない。観光庁の調査でも、訪日外国人の17.2%がゴミ箱の少なさを不便に感じている。
日本人はゴミを持ち歩き、捨てる場所を探し、自宅まで持ち帰る。近くのコンビニで捨てている人も多いだろう。
仮に、毎日1,000万人がそのために余分な1分を使えば、年間約6,083万時間。時間価値を2,000円とすれば約1,217億円になる。もちろん仮定の計算だが、企業の帳簿には表れない社会的コストも無視できない。
では、どうすればよいのか。
私は、使い捨て容器を大量に提供する企業が、業界横断で回収と処理の仕組みを作るべきだと思う。
飲料自販機業界では、他社の自販機が並ぶ場所でも関係者が回収方法や責任を協議する自主ガイドラインがある。家電リサイクル法では、小売業者の引き取りとメーカーの再商品化が制度化されている。
EUでは、2026年に8月から使い捨てプラスチック製の飲料カップなどについて、生産者に公共の回収やポイ捨てごみの清掃費用を負担させる制度ができた。
一方、日本の容器包装リサイクル法にも事業者の費用負担はあるが、まだまだ回収・処理のすべてを賄う仕組みにはなっていない。
スターバックス、マクドナルド、コンビニなどが共同で回収団体を作り、容器の数量や材質に応じて費用を負担する。店頭ではブランドを問わず同種の容器を回収し、処理は専門業者に委託すればよい。
重要なのは、事業者がゴミを出せば出すほど、その事業者に負担が増える仕組みにすることだ。
そうなれば、どうすればマイボトルを持参してもらえるか、事業者も本気で知恵を絞るだろう。
マイボトル持参者への大胆な値引き、ドライブスルーでも手間なく利用できる仕組み、別店舗でも返却できる共通のリユースカップ。
企業にゴミの処理費用を負担させる最大の意味は、ゴミを回収させることではなく、ゴミを出さない知恵を生み出させることにある。
費用は、商品価格に転嫁されるべきだろう。その商品を買う人が、容器の後始末まで含めた価格を負担する方が、買わない人の税金に頼るより筋が通る。
ドライブスルー業界も、法律で義務づけられる前に、自主的な共同回収の仕組みを考えるべきだろう。
「他社のゴミを引き取る義務はない」。それは現行のルールとしては正しい。
しかし、現時点で正しい局地的なルールと、望ましい社会の仕組みは同じではない。
日本人が几帳面にゴミを持ち帰るからといって、企業がいつまでもその善意に甘えてよいわけではない。
後始末まで考えてこそ、社会と共存できる持続可能な商売となるのだろう。
【今日の1000字】
「GMO熊谷さんは、老害でも独裁者でもなく●●だ」
社長という商売は、なかなか因果なものである。
会社を大きくすればカリスマと呼ばれ、しくじれば独裁者と呼ばれる。昨日まで決断力と褒められていたものが、今日は人の話を聞かぬ頑固さになる。
どうやら世間というものは、結果を見てから人間の性格まで決めるらしい。
GMOの熊谷正寿さんが、サイバー攻撃を巡る記者会見で涙を流した。
以前からシステムの脆弱性を指摘されていたにもかかわらず、十分な対策が取られず、犯人からは約80億円もの身代金を要求されたという。
これを受けて、熊谷さんのワンマン経営を問題視する声がある。独裁だの老害だのという言葉まで聞こえてくる。
だが、私は少々首をかしげる。
そもそも、あれほどの会社を一代で築き上げた経営者が、ワンマンでないはずがない。
これは私自身、数多くの新興/中小企業やその経営者を見てきた経験則でもある。
資金繰りも、採用も、新規事業も、最後は社長が決める。社員の意見を聞くことはあっても、全員の合意を待っていては商機を逃す。創業者というものは、誰よりも早く決め、誰よりも大きな責任を背負うことで会社を育ててきたのである。
日本電産を世界企業に育てた永守重信さんも、強烈なトップダウンで知られる。
熊谷さんも永守さんも、昨日今日になって突然ワンマンになったわけではあるまい。
若い頃から自分で考え、自分で決め、その結果を引き受けてきた。正しい判断もあれば、間違った判断もあっただろう。
ただ、正しい判断が多かったのか、あるいは人生を左右するここ一番で勝ったのか。いずれにしても、その積み重ねで今日の会社を築いたのである。
そんな人に、今さら自分の判断を信じるなと言っても無理な相談である。何しろ、その判断で会社をここまで大きくしてきたのだから。
そして今回、判断で負けた。
経営とはそういうものだと思う。
百戦百勝の経営者などいない。どれほど優れた経営者でも、判断を間違えることはある。ましてや事業を大きくすれば、ひとつの判断ミスが何万人もの顧客や社員に影響する。
もちろん、だからといって経営責任がなくなるわけではない。なぜ対策が進まなかったのか、なぜ重要な情報が経営トップに届かなかったのか。そこは厳しく検証されるべきだろう。
しかし、判断を誤ったことと、老害であることは別の話である。
自分で決めることと、他人の意見を聞かないことも違う。
そもそも、会社を創業し、幾度となく勝負を重ねてきた人間に、失敗した途端、みんなの意見を聞いて決めるべきだったと言うのも、いささか虫がよすぎる。
成功すれば先見の明、失敗すれば独断専行。
世間の評価というものは、実に便利にできている。
熊谷さんは、老害でも独裁者でもない。
ただの創業者なのだ。
その一言の中には、幾千もの決断と、誰にも代わってもらえなかった責任が詰まっている。
そして創業者というものは、勝った日も負けた日も、結局は自分の名前で勘定を払うのである。
三戸政和・事業投資家/テレビ・ラジオMC/作家 retweeted
【今日の1000文字】
「稼ぐ社長が、会社を潰す」
GMOインターネットグループのセキュリティー問題が大きな騒ぎになっている。顧客のFX口座で不正取引が発生し、以前からグループ内でもシステムの脆弱性を指摘されていたにもかかわらず、対応が遅れていたという。
無論、悪いのは不正を働いた者である。ただ、この一件は、経営の管理体制というものの難しさを改めて考えさせる。
会社の経営には、攻めと守りがある。
売上を伸ばし、新しい事業を始め、人を集める。攻めの仕事は威勢がよい。数字が伸びれば拍手も起こるし、社長も社員も鼻が高い。
一方、経理、法務、労務、情報管理といった守りの仕事は、どうにも分が悪い。何も起こらないことが成果なのだから、誰も褒めてくれない。事故が起きれば叱られるが、事故を防いでも表彰状は出ないのである。
しかし、商売というものは、売上を上げれば金が残るというほど単純ではない。
例えば、営業が頑張って1億円を売り上げたとする。ところが代金を回収できず、1億円が焦げ付いた。
粗利率30%の会社なら、その損失を粗利益で埋めるためには、さらに約3億3,000万円を売らなければならない。最初の1億円を売るための営業費用や、債権回収にかかった費用まで考えれば、損害はそれ以上になる。
しかも厄介なことに、売掛金が回収できなくても、売上は売上である。税務上、貸倒損失として認められるには一定の要件があり、単に支払いが遅れているだけでは損金にできない。
金は入ってこないのに、帳簿の上では利益が出て、税金の支払いがやってくる。そこへ仕入代金や人件費の支払いまで重なれば、たちまち資金繰りは行き詰まる。
大口取引先が倒産した途端、売掛金を回収できなくなった会社まで次々と倒れる。いわゆる連鎖倒産が起こるのは、こうした資金繰りの構造があるからだ。
売上をつくるのは大変だが、失うのは一瞬である。
しかも、会社が成長すればするほど、扱う金額は大きくなる。昔なら100万円で済んだ失敗が、売上100億円の会社では1億円の失敗になるかもしれない。
商売が大きくなるというのは、儲けが大きくなるだけではない。失敗もまた、大きくなるということである。
そこで管理体制が必要になるのだが、これがなかなか厄介である。
規程をつくり、承認権限を決め、チェックリストを並べる。立派な書類が出来上がれば、何となく安心したくなる。
だが、仏作って魂入れず、とはよく言ったものだ。
規程があっても守られなければ意味がない。チェックする担当者がいても、確認を怠れば意味がない。さらに、その担当者が本当に確認しているかを、誰かが点検し続けなければならない。
守りの仕事には、完成というものがないのである。
上場準備では、こうした仕組みを嫌というほど整備させられる。面倒な書類も増えるが、実際に運用するところまで求められる。あれは単なる上場のための儀式ではない。会社が大きくなっても潰れないための訓練なのである。
急成長した社長が、手にした何億円もの金を胡散臭い投資であっという間に溶かした、という話をよく聞くことがある。
投資のセンスが悪かったと言えばそれまでだ。しかし、そもそも誰がその投資を検証し、誰が危険を知らせ、誰が途中で止める仕組みだったのか。
そこが空っぽだったという話も、珍しくない。
金を失うだけなら、まだよい。管理の不備が法令違反に及べば、訴訟や行政処分、場合によっては刑事事件にもなる。会社が大きければ、被害を受ける人間も多くなる。
つまり、管理体制は成長した会社に必要なのではない。成長するために必要なのである。
攻めの強い社長は世の中に大勢いる。守りの強い管理者もいる。しかし、その両方を理解し、機能させられる経営者となると、これが案外少ない。
もっとも、バケツの穴をふさぐことばかり考えて、水を汲みに行く者がいなくなっても困る。だが、穴の開いたバケツに、いくら水を注いでも水はたまらない。
管理ができない経営者は、短期的や小規模に成功はできても、長期的や大規模には成功しない。
兵庫県議の補選で片山元副知事が勝ってたら、雪崩のように躍動の会へ動いていたはず。
兵庫県議会 長崎県議が会派「躍動の会・無所属」入り kobe-np.co.jp/news/society/2… @kobeshinbunより
【今日の1000文字】
「稼ぐ社長が、会社を潰す」
GMOインターネットグループのセキュリティー問題が大きな騒ぎになっている。顧客のFX口座で不正取引が発生し、以前からグループ内でもシステムの脆弱性を指摘されていたにもかかわらず、対応が遅れていたという。
無論、悪いのは不正を働いた者である。ただ、この一件は、経営の管理体制というものの難しさを改めて考えさせる。
会社の経営には、攻めと守りがある。
売上を伸ばし、新しい事業を始め、人を集める。攻めの仕事は威勢がよい。数字が伸びれば拍手も起こるし、社長も社員も鼻が高い。
一方、経理、法務、労務、情報管理といった守りの仕事は、どうにも分が悪い。何も起こらないことが成果なのだから、誰も褒めてくれない。事故が起きれば叱られるが、事故を防いでも表彰状は出ないのである。
しかし、商売というものは、売上を上げれば金が残るというほど単純ではない。
例えば、営業が頑張って1億円を売り上げたとする。ところが代金を回収できず、1億円が焦げ付いた。
粗利率30%の会社なら、その損失を粗利益で埋めるためには、さらに約3億3,000万円を売らなければならない。最初の1億円を売るための営業費用や、債権回収にかかった費用まで考えれば、損害はそれ以上になる。
しかも厄介なことに、売掛金が回収できなくても、売上は売上である。税務上、貸倒損失として認められるには一定の要件があり、単に支払いが遅れているだけでは損金にできない。
金は入ってこないのに、帳簿の上では利益が出て、税金の支払いがやってくる。そこへ仕入代金や人件費の支払いまで重なれば、たちまち資金繰りは行き詰まる。
大口取引先が倒産した途端、売掛金を回収できなくなった会社まで次々と倒れる。いわゆる連鎖倒産が起こるのは、こうした資金繰りの構造があるからだ。
売上をつくるのは大変だが、失うのは一瞬である。
しかも、会社が成長すればするほど、扱う金額は大きくなる。昔なら100万円で済んだ失敗が、売上100億円の会社では1億円の失敗になるかもしれない。
商売が大きくなるというのは、儲けが大きくなるだけではない。失敗もまた、大きくなるということである。
そこで管理体制が必要になるのだが、これがなかなか厄介である。
規程をつくり、承認権限を決め、チェックリストを並べる。立派な書類が出来上がれば、何となく安心したくなる。
だが、仏作って魂入れず、とはよく言ったものだ。
規程があっても守られなければ意味がない。チェックする担当者がいても、確認を怠れば意味がない。さらに、その担当者が本当に確認しているかを、誰かが点検し続けなければならない。
守りの仕事には、完成というものがないのである。
上場準備では、こうした仕組みを嫌というほど整備させられる。面倒な書類も増えるが、実際に運用するところまで求められる。あれは単なる上場のための儀式ではない。会社が大きくなっても潰れないための訓練なのである。
急成長した社長が、手にした何億円もの金を胡散臭い投資であっという間に溶かした、という話をよく聞くことがある。
投資のセンスが悪かったと言えばそれまでだ。しかし、そもそも誰がその投資を検証し、誰が危険を知らせ、誰が途中で止める仕組みだったのか。
そこが空っぽだったという話も、珍しくない。
金を失うだけなら、まだよい。管理の不備が法令違反に及べば、訴訟や行政処分、場合によっては刑事事件にもなる。会社が大きければ、被害を受ける人間も多くなる。
つまり、管理体制は成長した会社に必要なのではない。成長するために必要なのである。
攻めの強い社長は世の中に大勢いる。守りの強い管理者もいる。しかし、その両方を理解し、機能させられる経営者となると、これが案外少ない。
もっとも、バケツの穴をふさぐことばかり考えて、水を汲みに行く者がいなくなっても困る。だが、穴の開いたバケツに、いくら水を注いでも水はたまらない。
管理ができない経営者は、短期的や小規模に成功はできても、長期的や大規模には成功しない。
【今日の1000文字】
「ジャングリアに残された、たった一つの道」
ジャングリアが記者会見を開いた。初年度は来場者96万人、売上104億円、EBITDA▲26.5億円。
今期は63.8万人、EBITDA▲13.6億円を見込み、人員や外注費などを徹底的に見直すことで、最終的には64万人でもEBITDA6億円を出せる体質にし、同時に、スポンサーも探しているとのことだ。
まず出血を止める。これは正しい。
ただ、EBITDA6億円まで改善しても、開業時に13金融機関から調達した366億円のデットがある。仮に金利2%なら利息だけで年間7.3億円、3%なら11億円。実際の金利や返済条件は公表されていないが、6億円では元本どころか利息さえ賄えない可能性がある。
これでは株価を1円にしてもスポンサーは引き取れない。まず金融機関に大幅な債権カットやDESなどで痛みを取ってもらい、366億円を大胆に整理する必要があるだろう。
しかも、今年4月には20億円、10月には沖縄振興開発金融公庫から30億円の追加融資を受けている。特に後者は新スポンサーからの出資を前提にしたつなぎ資金で、優先弁済条件も付いていると報じられている。開業時の366億円を整理できても、この直近50億円まで同じように飛ばせるとは考えにくい。
そして、スポンサーが入っただけでも再生にはならない。テーマパークは装置産業である。新しいアトラクションやIPを入れ、サービスを改善し、「行ってみたい」という理由を作り続けなければ売上は落ちる。新スポンサーには少なくとも50億円程度の成長投資も必要になるだろう。
すると、直近50億円のデットと新規50億円を合わせ、新スポンサーから見れば実質100億円程度のEV目線となる。再生案件として5倍程度のEBITDAマルチプルを一つの目線にすれば、必要なEBITDAは20億円となる。
では、会社が目指す6億円から20億円まで、どう持っていくのか。
今回の改革で、64万人でもEBITDA6億円を出せるところまで固定費を落とせれば、20億円まで必要な利益はあと14億円。増収部分の変動費率を20%とすれば必要増収は17.5億円、30%なら20億円。ざっくりトップラインを20億円程度上げることができれば、EBITDA20億円が見えてくる(もちろん、売上増加と共に費用も増えるが計算が複雑なので置いておく)。
で、その20億円を誰が作るのか。
ここは時間との勝負でもある。経営不安が続くテーマパークに、客はわざわざ旅行の日程を割くだろうか。取引先は新しい企画に乗るだろうか。優秀な従業員は残るだろうか。
テーマパークが売っているのは、アトラクションだけではない。そこで働く人、サービス、イベント、広告、新しい施設まで含めた「楽しそうな空気」である。資金繰り不安が長引けば投資を抑え、サービスが落ち、客が減り、さらに投資できなくなる。時間がたつほど企業価値が下がるだけではなく、スポンサーが入った後に売上を20億円戻すチャンスまで小さくなっていく。
思い出すのは、HISによるハウステンボス再生だ。あの時もHISが金を出しただけで再生したわけではない。金融機関が債権を整理し、地元自治体も税負担面で支援し、そのうえで新しいスポンサーが成長に資金を使える環境を作った。
ジャングリアも同じだ。金融機関、既存株主、そして必要なら行政も早く痛みを分け、新しい資金を新しいアトラクションやIP、サービスに使える投資環境を整える。
そして必要なのは単なる金主ではない。強い送客力を持つ企業か、強力なIPによって「それを見るために沖縄へ行く」という需要を作れるスポンサーでだろう。スポンサー交代そのものを「新しいジャングリア」のニュースにして、資本、経営、サービス、コンテンツを一気に変えるくらいの再スタートが必要だ。
ジャングリアは約700億円を集め、沖縄北部に巨大テーマパークを作った。それ自体、大変な挑戦だったと思う。正直、64万人でEBITDA6億円を出して小さく生き残ることは中期的には不可能だろう。
良し悪しあれど、まだジャグリアに世の中の関心があるうちに、抜本的な改革を望みたい。今は強い向かい風だが、進む方向を大きく変えれば、追い風にできるチャンスでもある。
【今日の1000文字】
「天丼屋のライバルは、天丼屋ではない」
天丼てんやが値上げをしたところ、客足が遠のいているらしい。2026年9月の既存店客数は前年同月比10.9%減。客単価は8.0%上がったものの、売上高は3.8%減った。値上げで単価は上がったが、客数減を補えなかったのである。
カレーハウスCoCo壱番屋も同様だ。値上げを重ねた結果、9月の既存店客数は7.0%減った。親会社のハウス食品グループが株式売却を検討しているとの報道まである。もっとも、売却検討と客数減の因果関係が確認されたわけではない。
世の中はインフレである。米も油も人件費も上がった。だから値上げは仕方がない。そう言われれば、なるほどもっともな話である。
しかし、客の財布にまで、そんな道理が通じるとは限らない。
そもそも、天丼屋の商売敵は誰なのだろう。
隣町の天丼屋か。駅の反対側の天ぷら屋か。いや、そうとは限らない。牛丼屋もあれば、うどん屋もある。そば屋、中華料理店、カレー屋、定食屋。腹の減った人間にとっては、どれも立派な競争相手なのである。
昼飯時、駅前に立つ男がいる。財布には千円札が1枚。天丼にするか、牛丼にするか。少し歩いてラーメンにするか。男は飲食業界の分類など知ったことではない。ただ、腹が減っているだけである。
しかも、立地というものが、話をいっそうややこしくする。
同じ駅前でも、改札に向かう人間と、改札から出てくる人間では、選ぶ店が違う。電車に乗る前なら、早く食べられることが大切かもしれない。仕事帰りなら、家に持ち帰れる弁当がよいかもしれない。
そうなれば、天丼屋の競合はコンビニであり、パン屋であり、駅弁売場にまで広がる。
店の前を何人通るかだけではない。その人たちはどちらへ向かい、何分の余裕があり、いくら払うつもりなのか。どんな料理と迷い、何を決め手に暖簾をくぐるのか。
たった一杯の天丼の値段を決めるにも、これだけのことを考えねばならない。
ところが値上げの議論となると、原材料費が何%上がったから、価格も何%上げましょうという話になりがちである。原価の計算は正しくても、商売の計算が正しいとは限らない。
そして、日常食にはもう1つ、厄介な性質がある。
習慣である。
毎週金曜日に天丼を食べていた男が、値上げを機に牛丼屋へ入る。思いのほか旨かった。早かった。財布にも優しかった。翌週も牛丼屋へ行く。その翌週も行く。
こうして天丼屋は、1人の客を失う。
いや、正確には、1人の客が何年にもわたって通ってくれたかもしれない、無数の金曜日を失うのである。
一度変わった習慣を元に戻すのは、容易ではない。値段を戻したところで、客が戻るとは限らない。
インフレだから値上げする。それは経営者の事情である。客には客の事情があり、ほかに食べる店はいくらでもある。
原価は帳簿を開けばわかる。人件費も、家賃も、電気代もわかる。
ただ1つ、帳簿には書いていないことがある。
あの男が、来週の金曜日も天丼を食べてくれるかどうかである。
【今日の1000文字】
「独立させるための金が、辞めさせないための金になった」
三井住友信託銀行が、退職金と企業年金の年功序列を廃止するという。長く勤めただけでは増えず、能力や役職によって支給額が変わるそうだ。結構なことである。しかし私は、いっそのこと退職金そのものを廃止すればよいと思っている。
退職金の歴史を調べると、実に皮肉な話に行き当たる。
その源流の1つは、江戸時代の商家にあった「のれん分け」だという。丁稚奉公から始めて、長年店に尽くした者に、主人が独立のための資金や商売の権利を与える。三井家には1722年の記録が残っている。
主人は奉公人に金を渡し、外の世界へ送り出したのである。
ところが明治になり、工場が増え、熟練した職人の奪い合いが始まると、退職金は人材を引き留める道具になっていく。
仕組みは簡単だ。退職金を勤続年数に応じて増やし、長く勤めた人ほど多く受け取れるようにする。さらに、自己都合で早く辞めれば支給額を減らす。社員からすれば、転職したくても、今辞めると将来もらえる金を失う。あと5年、あと10年と勤めるうちに、ますます辞めにくくなる。
会社は、今すぐ高い給料を払わずとも、将来の退職金を約束することで人をつなぎ留められる。実に都合のよい仕組みである。
大正から昭和にかけては失業時の生活保障という意味も加わり、戦後は老後の生活を支える制度として定着していった。
独立させるために渡していた金が、いつの間にか、辞めさせないために積み立てる金になった。
これほど見事な逆転も、そうあるまい。
国もまた、退職金を税制で手厚く優遇してきた。長年の労働の対価を一度に受け取れば累進課税で税負担が重くなるし、老後の生活資金でもあるという理屈だ。
勤続20年なら退職所得控除は800万円。30年なら1500万円、40年なら2200万円。さらに原則として、控除後の半分だけが課税対象になる。
なるほど、一括払いによる重税を防ぐという説明には道理がある。しかし、そもそも毎月払えば、そんな問題は起きないのである。
しかも、30歳と60歳で、もらう100万円は同じ100万円ではない。若い頃なら家も買える。子育てにも使える。商売を始める元手にもなる。老後の備えなら、今はNISAで年間360万円、総枠1800万円まで、運用益を非課税にできる。
会社が何十年も金を預かり、利息も払わずに最後にまとめて渡してやるという仕組みを、いつまで続ける必要があるのだろう。退職金を廃止し、その原資を毎月の給与として支払えばよいと思う。退職金だけを優遇する税制も、役目を終えてよい。
給与の年功序列も同じことだ。
20代、30代は、身軽に動き、自分の手足で成果を出せる時期である。若くても仕事ができるなら、遠慮なく高い給与を払えばよい。しかし30代後半からは、自分が働くだけでは足りなくなる。人を動かし、仕事を組み立て、プロジェクトとして成果を出せるかが問われる。
それができる人の給与は大きく上がればよいし、できない人は大きく下がってもよい。もちろん、専門性そのもので稼ぐ人は別である。年齢や勤続年数に値札をつけるのではなく、今生み出している価値に値札をつけるのだ。
江戸の主人は、奉公人が一人前になれば、金を持たせて外へ送り出した。
現代の会社は、社員が一人前になっても、金を預かったまま離そうとしない。
独立のための制度が、いつしか人を縛る制度になったのである。そろそろ、金も人生も、働いた本人に返してやればよい。


