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【「神探偵イエス・キリスト」シリーズの新刊発売!!&初のイベント開催決定!!】
清涼院流水のデビュー30周年記念作品「神探偵イエス・キリストの生還 踊る暴君ヘロデ」が、本日10月21日(水)発売となります!!
(電子版は、昨夜からダウンロード可能に)
「神探偵イエス・キリスト」シリーズは毎回独立した内容で、今回の新作「踊る暴君ヘロデ」は、ミステリとしても、物語としても、今後もう2度と超せない生涯最高傑作になったと自負しています。
最初から最後まで寄り道ゼロの全編クライマックスで、前2巻より、かなり読みやすいと思います。
前作までを未読の方や、前の機会にはうまくハマれなかったという方にも、ぜひトライしていただけますと、ありがたいです。
何卒よろしくお願いいたします。
「神探偵イエス・キリスト」シリーズの最初の2作については、去年まで毎年の年末に開催していた英訳プロジェクト「The BBB」の「Cast Party」というオンライン・イベント内で、藤枝暁生さん(酒場本&英語本著者)に流水をインタビューしていただいていました。
海外電子書店のシステム障害がいまも続いておりThe BBBは活動休止中のため、今年末は「Cast Party」の開催はありませんが、藤枝さんから「せめて神探偵インタビューのコーナーだけでも、ぜひやらせてください」というありがたいご提案をいただき、このシリーズでは初めてとなる単独イベント開催を決意いたしました(もちろん、版元である星海社さんのご了解も得ています)。
先月、清涼院流水のデビュー30周年記念日当日である2026年9月5日に開催したオンライン・イベントには、90人もの熱い読者の方にご参加いただきました。
いまもその余韻が続いているのですが、スタイルは、30周年イベントとまったく同じです。
Zoomを利用したオンライン・イベントを、2026年12月27日(日)の14:00-17:15(最大延長17:30)に開催します。
どなたでも無料でご参加いただけますが、Zoomの参加可能人数に上限があり(The BBBが使用している契約では上限100人です)人数把握の必要があるため、11月下旬ごろからGoogleフォームでの事前お申し込みをお願いする予定です。
お申し込みいただく際に、「神探偵イエス・キリスト」シリーズの「推しエピソード」と「推しキャラ」のご投票をお願いし、イベント中に結果を発表します。
ご投票いただくかどうかは自由で、未読の方もご参加いただけます。
Googleフォームでは、このシリーズに関してのご質問も募集し、イベント中も、Zoomのチャット機能でいつでもご質問いただけますので、参加してくださる「あなた」もインタビュアーのおひとりです!
清涼院流水のデビュー30周年イヤーを締めくくるこのイベントに、ぜひご参加いただけますと、ありがたいです。
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(ルカ6)
心をいっぱいに満たした愛は、あふれ出して周りの人々の心に流れ込みます。神さまの愛を信じ、心を愛で満たすことができますように。片柳神父
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
【#東方の3おじさん 語録】「映画でよく出てくる、食事のまえにみんなで手をつないでお祈りする、という場面は、ぼくが20年まえにアメリカに留学していたときには、あまり見たことないです」――ゆるおじMARO(第20回放送より)
youtube.com/watch?v=m5Wc4NOi…
【日本文学の革命家・村上龍先生から清涼院流水が受けた絶大すぎる影響(第5回)】
村上龍先生のどれも個性の強い作品群をふり返ったとき、必ず思い出すのは、エッセイ集「龍言飛語」に添えられた「開かれた国の野球少年はメジャーリーグを目指す。」というサブタイトルです。
いまでこそ、日本人野球選手がメジャーリーグで活躍するのはめずらしくありませんが、「龍言飛語」が刊行されたのは、メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄選手の活躍で日本人の道が切り拓かれる数年まえのことでした。
流水の両親は、ふたりとも仕事で海外に行ったことはあるものの、旅行で海外に行くことには興味ゼロでした。
日本での仕事が好きな人たちなので、海外には、なにも興味がないようでした。
ですから、息子たちを留学させるという発想など、おそらく一度も考えたことがないと思いますし、息子たちのほうでも、そんな選択肢は無縁の世界でした。
最初は両親の性格を受け継いで、流水も、かつては「人生で一度も海外に行かなくて良い」と思っていたものです。
その一方、作家デビューを目ざしてがんばっていた数年間、「もしデビューしたら、自分の作品をだれかに英訳してもらって、もっとも影響を受けた海外作家であるスティーヴン・キング先生にお贈りしたい」という夢想をいだいていたことがあります。
それは、海の向こうにいだいた、初めての憧れでした。
当時、わりと身近なところに英語の先生がいたので、もしかしたら、その人に翻訳を頼めるんじゃないか、と思っていたのです。
ところが、その人とはデビュー直後に疎遠になり、流水自身は作家として生き残ることに必死な毎日で、「自作を英訳してスティーヴン・キング先生にお贈りしたい」という夢物語のことは、いつしか忘れてしまいました。
それでも、「開かれた国の野球少年はメジャーリーグを目指す。」という、龍先生の預言者のようなメッセージを思い出すことは、よくありました。
ちょうど野茂選手がメジャーリーグで活躍し始めた時期に作家デビューした、ということも関係しています。
「開かれた国の作家は全世界の読者に向けて書く」のではないか、ということを考えさせられたのは、龍先生のメッセージの影響です。
その後の流水は、小説執筆の息抜きとして始めた趣味の英語学習にハマって、TOEICテストの満点を5回獲得。
カナダ人漫画家との合同公式サイトを経て、2012年からは英訳プロジェクト「The BBB」をスタートさせ、これまで14年間で日本人作家の作品の英語版を160作品以上、電子書籍で全世界へ送り出してきました。
流水自身の作品を英訳した「キング・イン・ザ・ミラー」は、これまで80か国以上でダウンロードされてきましたが、昨年から今年にかけて海外電子書店で発生しているシステム障害がぜんぜん解決しないので、現在は英訳活動は休止中です。
日本人作家さんの小説やビジネス書を毎日英訳する生活をずっと続けてきたので、いつしか、日本語で書かれた小説を読む際にも、「この表現は、どう英訳できるだろう?」と、つねに考えるクセがつきました。
たまに英訳が手ごわい日本語の文章に出会うと嬉しくなるのですが、その代表例として真っ先に浮かぶのが、村上龍先生が読売文学賞を受賞された代表作「イン ザ・ミソスープ」冒頭の、以下の文章です。
「おれの名前はケンジ。わたしの名前はケンジと申します。ぼくはケンジ。あたしケンジっていうのよ。日本語にはいろいろ言い方はあるがそれは何のためなんだろうな、と思いながら、おれはそのアメリカ人に、マイネーム イズ ケンジと言った。おお、君がケンジか、とそのアメリカ人は大げさな身ぶりで喜んで見せた。よろしく、と言って、おれはその太ったアメリカ人旅行者と握手をした。西武新宿駅のすぐ近くにある、外国だったら二つ星と三つ星の中間にランクされそうなホテル。それがおれとフランクの記念すべき出会いの瞬間だった。」
もちろん、翻訳に唯一正解はないのですが、ひとつの解答例として、翻訳者ラルフ・マッカーシーさんによる英語版では、以下のように訳されています。
「My name is Kenji.
As I pronounced these words in English I wondered why we have so many ways of saying the same thing in Japanese.
Hard-boiled: Ore no na wa Kenji da.
Polite: Watashi wa Kenji to moshi-masu.
Casual: Boku wa Kenji.
Gay: Atashi Kenji 'te iu no yo!
"Oh, so you're Kenji!" The overweight American tourist made a big show of being delighted to see me. "Nice to meet you," I said and shook his hand. This was near Seibu Shinjuku Station, at a hotel that might rate about two-and-a-half stars overseas. A moment I won't forget—the first time I ever met Frank.」
翻訳できない部分は翻訳せずにそのまま紹介する、というパターンで、この手法は村上春樹先生の翻訳の特徴でもあるのですが、くわしく話すと脱線になりますので、ここでは触れません。
英訳の関連として、龍先生の生涯の大親友であった故・坂本龍一先生が、「龍、自分の小説を自分で英訳すればいいじゃん」と言われた際に、「いや、それは無理だよ」とお答えになっていたことが忘れられません。
龍先生の文体というのは、日本語のポテンシャルを最大限に引き出しているものなので、その迫力を英文で再現するのは困難なのです。
流水は英訳者として、いろんな作家さんの小説を英訳してきましたが、文体というのは作家さんの個性であり、それを異なる言語で完全再現することは、どんな翻訳者にも不可能です。
一時期以降の流水は、自作では「英訳できない日本語は最初から書かない」というモードがずっと続いていたのですが、海外電子書店の問題がなかなか解決せず英訳が休止中ということもあり、現在執筆中の「新たな壁本」では、本当に久しぶりに「英訳が非常に困難な、日本語でのみ成立する豊かな表現」を徹底的に使っています(カッコ良く言いましたが、その多くは言葉遊び、要するにダジャレです)。
でも、まじめな話、いままさに、数年ぶりに日本語で毎日たくさん遊び続けている時期だからこそ、思うのです。
英訳という選択を意識して切り捨てられた龍先生は、それだけまぎれもなく「日本の文豪」であったのだと。
そして、著者自身が翻訳しなくても、龍先生の作品はいろんな国の言語に翻訳され、それぞれの国で熱い読者を獲得していることは、みなさまもよくご承知の通りです。
日本人作家が日本より海外で先にブレイクするケースも、徐々に出始めています。
世界で活躍する日本人作家さんは、今後ますます増え続けるでしょう。
「もしかして、わたし?」と、画面のまえで自分を指さした、あなた。
そう……次に海外で活躍するのは、いまこれを読んでくださっている、あなたかもしれないのです。
【きょうの新約聖句: Day 309】
わたしたちの内(うち)なる古(ふる)い人間がキリストとともに十字架につけられたのは、罪(つみ)に縛(しば)られた体(からだ)が滅(ほろ)ぼされて、もはや罪に仕(つか)える奴隷(どれい)でなくなるためであることを、わたしたちはよく知っています。
死んだ者(もの)は罪から解放(かいほう)されているのです。
キリストとともに死んだのなら、また、キリストとともに生きることにもなるとわたしたちは信(しん)じます。
死者のうちから復活させられたキリストは、もはや死ぬことがないと、わたしたちは知っています。
死はもはやキリストを支配していません。
キリストが死んだのは、ただ一度、永久(えいきゅう)に罪に対(たい)して死んだのですが、キリストが生きているのは、神に対して生きているのです。
同じように、キリスト・イエスに結(むす)ばれてあなた方(がた)も罪に対して死に、神に対して生きている者(もの)であることを弁(わきま)えなさい。
あなた方(がた)の死ぬべき体(からだ)を罪に支配させ、その欲望(よくぼう)に屈服(くっぷく)してはなりません。
また、あなた方(がた)の五体(ごたい)を、罪に仕(つか)える邪(よこしま)なことのための武器にしてはなりません。
かえって、自分自身を死者の中から蘇(よみがえ)えったものとして神にささげ、また五体(ごたい)を救(すく)いの義(ぎ)に役立つ武器として神にささげなさい。
なぜなら、罪があなた方(がた)を支配することはないからです。
あなた方(がた)は律法(りっぽう)のもとにあるのではなく、恵(めぐ)みのもとにあるのです。
ローマの人々への手紙 6:6-14
(聖書 原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注)
[Today’s New Testament Verses: Day 309]
We know that our old self was crucified with him, so that our sinful body might be done away with, that we might no longer be in slavery to sin.
For a dead person has been absolved from sin.
If, then, we have died with Christ, we believe that we shall also live with him.
We know that Christ, raised from the dead, dies no more; death no longer has power over him.
As to his death, he died to sin once and for all; as to his life, he lives for God.
Consequently, you too must think of yourselves as being dead to sin and living for God in Christ Jesus.
Therefore, sin must not reign over your mortal bodies so that you obey their desires.
And do not present the parts of your bodies to sin as weapons for wickedness, but present yourselves to God as raised from the dead to life and the parts of your bodies to God as weapons for righteousness.
For sin is not to have any power over you, since you are not under the law but under grace.
The Letter to the Romans 6:6-14
(New American Bible Revised Edition)
【流水コメント】
パウロは、イエス・キリストを知るまえの人のことを「内(うち)なる古(ふる)い人」と呼びます。
そして、その「内なる古い人」は、キリストが全人類の代(か)わりに十字架につけられたことによって死んだのだ、と語(かた)っています。
そして、死に打ち勝ったキリストは、もはや不死なので、キリストとともに生きる者たちも永遠(えいえん)のいのちが得(え)られるのだ、というのがパウロの説明です。
もちろん、「内なる古い人」が死んでも、悪魔が一時的に支配している(と聖書に明記されている)この世(よ)で生きている限(かぎ)り、罪(つみ)を犯(おか)す誘惑(ゆうわく)から完全にのがれることはできません。
それでも、以前のような「罪の奴隷(どれい)」ではなくなっているので、罪に支配されずに生きることも努力すれば可能だというのがパウロの主張であり、現在も変わらないキリスト教の重要な教義(きょうぎ)の一部です。
[Ryusui’s Commentary]
Paul refers to a person as they existed before knowing Jesus Christ as the "old self" within.
He explains that this "old self" died when Christ was crucified on behalf of all humanity.
Furthermore, Paul teaches that because Christ—having triumphed over death—is now immortal, those who live in union with Him also gain eternal life.
Of course, even though the "old self" has died, as long as one lives in this world—which the Bible explicitly states is currently under the temporary dominion of the devil—it is impossible to completely escape the temptation to commit sin.
Nevertheless, Paul argues that because one is no longer a "slave to sin" as one once was, it is possible—through effort—to live without being controlled by sin. This remains a significant and enduring tenet of Christian doctrine to this day.
【きょうの旧約聖句: Day 309】
バビロンに一人の男が住(す)んでおり、名をヨアキムといった。
彼は妻(つま)を迎(むか)えた。
ケルキアの娘で名をスザンナといい、非常に美しく、また、主(しゅ)を畏(おそ)れ敬(うやま)う女性であった。
彼女の両親も正しい人で、自分たちの娘をモーセの律法(りっぽう)に従(したが)って教育した。
夫ヨアキムは大層(たいそう)裕福(ゆうふく)で、その家の隣(となり)に庭園(ていえん)を持っていた。
彼は誰(だれ)よりも尊敬されていたので、ユダヤ人たちはよく彼の所(ところ)に集(あつ)まっていた。
ところで、その年に、民(たみ)の中から二人の長老(ちょうろう)が裁判官(さいばんかん)として任命(にんめい)された。
「バビロンから、民を指導するとみなされていた裁判官の長老たちから、不法(ふほう)行為(こうい)が出た」と、主(しゅ)が語られたのは、彼らについてであった。
さて、二人はヨアキムの家に足(あし)繁(しげ)く出入(でい)りしていた。
そして、裁(さば)きを求(もと)める人々(ひとびと)はみな、彼らのもとをよく訪(おとず)れた。
正午(しょうご)になって人々が帰るころ、スザンナは夫の庭園に入り、散歩するのが常(つね)であった。
この二人の長老たちは、彼女が毎日そこに入って散歩するのを眺(なが)めていたが、いつしか彼女に欲情(よくじょう)を抱(いだ)くようになっていた。
彼らは理性(りせい)を失(うしな)い、目を背(そむ)けて、天を仰(あお)ぎ見ることもせず、正しい裁(さば)きを忘れてしまった。
二人とも彼女のことで思い煩(わずら)っていたが、互(たが)いに自分の悩(なや)みを打ち明けることはしなかった。
彼女と情(じょう)を交(か)わしたいという自分の欲情を打ち明けるのが恥(は)ずかしかったからである。
こうして毎日、彼女を見ようと、執拗(しつよう)に折(おり)を窺(うかが)っていた。
ダニエル書 13:1-12
(聖書 原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注)
[Today’s Old Testament Verses: Day 309]
In Babylon there lived a man named Joakim, who married a very beautiful and God-fearing woman, Susanna, the daughter of Hilkiah; her parents were righteous and had trained their daughter according to the law of Moses.
Joakim was very rich and he had a garden near his house.
The Jews had recourse to him often because he was the most respected of them all,
That year, two elders of the people were appointed judges, of whom the Lord said, "Lawlessness has come out of Babylon, that is, from the elders who were to govern the people as judges."
These men, to whom all brought their cases, frequented the house of Joakim. When the people left at noon, Susanna used to enter her husband's garden for a walk.
When the elders saw her enter every day for her walk, they began to lust for her.
They perverted their thinking; they would not allow their eyes to look to heaven, and did not keep in mind just judgments.
Though both were enamored of her, they did not tell each other their trouble, l for they were ashamed to reveal their lustful desire to have her.
Day by day they watched eagerly for her.
The Book of Daniel 13:1-12
(New American Bible Revised Edition)
【流水コメント】
カトリック教会や東方(とうほう)正教会(せいきょうかい)の使用するラテン語聖書やギリシア語聖書は、「ダニエル書(しょ)」の13章で、スザンナという女性の話を正典(せいてん)として収録しています。
ですが、このスザンナの話は、プロテスタント教会が使用するヘブライ語聖書には収録されていません。
そのため、プロテスタント教会では、スザンナの話は「ダニエル書 補遺(ほい)」または「旧約聖書外典」と呼び、正典には含(ふく)めません。
この話に出てくる「長老(ちょうろう)」は、ユダヤ人社会の指導的(しどうてき)立場(たちば)の男性という意味で、必(かなら)ずしも老人とは限(かぎ)りません。
ですが、テントレットやレンブラントなどの宗教画でふたりの長老を老人として描(えが)いたものが広まり、スザンナを情欲(じょうよく)の目で見る老人ふたりというイメージが定着(ていちゃく)しています。
[Ryusui’s Commentary]
In the Latin and Greek Bibles used by the Catholic and Eastern Orthodox Churches, the story of a woman named Susanna is included as the 13th chapter of the Book of Daniel.
However, this story does not appear in the Hebrew Bible used by Protestant churches. Consequently, in Protestant tradition, the story of Susanna is classified as an "addition to the Book of Daniel" or as part of the Old Testament apocrypha, and is not considered canonical.
The term "elder" (presbyter) in this story refers to men who held positions of leadership within Jewish society; it does not necessarily imply that they were elderly.
Nevertheless, religious paintings—such as those by Tintoretto and Rembrandt—depicted these two elders as old men. This portrayal became widespread, establishing the enduring image of two elderly men leering at Susanna with lustful intent.
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
久々に3人だけでコロナ後の出会いをだらだらと語ってみた #東方の3おじさん #月曜からダメ出し 第68回「教会ランチ コロナ禍の前と後」ダイジェスト版 清涼院流水×松... youtu.be/_vqWvuQH58w?si=5e2Y…
【きょうのポテトヘッドさん】
「きょうの旧約/新約聖句」のご感想、毎日ありがとうございます🙇♂️
引用してくださった通り、イエスを信じる者は神の子となる資格を与えられることが、「ヨハネの福音書」に記されていましたね🙂洗礼者ヨハネが預言した「聖霊による洗礼」、パウロが語る「新しいいのち」も、同じことを言っています😉👍✨
聖書に記されている預言は謎めいていて、ミステリ小説に出てくる暗号のようですね🫢聖書こそ、人類最大のミステリです✨📖✨🔍🧐✨
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
きょうの旧約聖句、日ごとの献げ物が廃止され、荒廃をもたらす憎むべきものが立てられてから、千二百九十日がある。待ち望んで、千三百三十五日に至るものは幸いである。これらのことを伝えられたダニエルは、意味を理解できたんだろうなぁ。聖書の預言は謎が多くて、まさにミステリだ。
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
きょうの新約聖句: Day 058に、み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた、とある。新しい命は神の子となる資格でもあるんだな。
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
きょうの新約聖句、洗礼によってキリストとともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです。きょうの新約聖句: Day 060にて、ヨハネがイエスのことを聖霊によって洗礼を授ける者、と言っていたなぁ。
【きょうの新約聖句: Day 308】
それではどうでしょうか。
恵(めぐ)みが増(ま)し加(くわ)わるのを期待して、罪(つみ)の中に留(とど)まるべきだというのでしょうか。
決(けっ)してそうではありません。
罪に対(たい)して死んだわたしたちが、どうしてなお罪のうちに生き続けることができるでしょうか。
それとも、あなた方(がた)は知らないのですか。
洗礼(せんれい)を受けてキリスト・イエスと一致(いっち)したわたしたちはみな、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。
わたしたちはその死にあずがるために、洗礼によってキリストとともに葬(ほうむ)られたのです。
それはキリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命(いのち)に歩むためです。
その死にあやかってキリストと一体(いったい)となったとすれば、わたしたちはその復活にもあやかって一体となるでしょう。
ローマの人々への手紙 6:1-5
(聖書 原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注)
[Today’s New Testament Verses: Day 308]
What then shall we say?
Shall we persist in sin that grace may abound?
Of course not!
How can we who died to sin yet live in it?
Or are you unaware that we who were baptized into Christ Jesus were baptized into his death?
We were indeed buried with him through baptism into death, so that, just as Christ was raised from the dead by the glory of the Father, we too might live in newness of life.
For if we have grown into union with him through a death like his, we shall also be united with him in the resurrection.
The Letter to the Romans 6:1-5
(New American Bible Revised Edition)
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
神探偵あるある🐷
読んでる時、ついつい髪を後ろに撫でつけがち。
#今読んでる本
折り返しの3巻〜♫
今回は「物理の清涼院流水」らしい(?)
そして、なんとこのシリーズは大説でありながら手首を傷める心配も、投げつける壁を用意する必要もありません🥹
『神探偵イエス・キリストの生還 踊る暴君ヘロデ』清涼院流水
清涼院流水 Ryusui Seiryoin retweeted
ありがとう神様 信仰のお恵みを。
ありがとう神様 信仰の喜びを。
新しいひとになって 信仰の恵みに生き
喜びを 喜びを のべ伝えよう。
#きょうの良い知らせ


























