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自分とつながりなおしたときの、力が戻ってくる感覚だったり、新しい気づきや発見が起きてくる感覚が大好きです。
自分に寛いで新しくなったような世界に触れると、子供の頃のような気持ちになる。
ぜひ、体験しに来てください。
resonanceblue.com
12月に、また九州にお邪魔してセッションのご提供をいたします。
12月13日(日)博多
12月14日(月)博多
12月15日(火)鳥栖
12月16日(水)鳥栖
12月17日(木)長崎にてオープンダイアログをされているきいちゃん@key_chan_asdと共同でWS、セッション提供
12月18日(金)長崎
12月19日(土)大分
の予定です。
時間帯やワークショップ詳細につきましては改めて告知させていただきます。
身体をほどくことは心をほどくこと。自分を生きるためのボディーワークです。
どうぞこの機会をご活用ください。
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11月の中目黒でのセッションのご提供日を追加しました。現在の募集時間枠は以下の4枠です。
ご希望の方はHPよりお申し込みください。
11月10日(火)②13時~
11月18日(水)②13時~ ②15時~
11月26日(木)②13時~ ②15時~
身体から神経系を育てて、自分らしい生き方を選んでゆける基礎を作っていくボディーワークです。
過緊張、柔軟な身体と心を育てたい方、心と体のつながりにご興味ある方、身体の使い方を学びたい方、安定した心の基盤としての身体にご興味ある方に。
不安が強い方、カウンセラーやコーチ、看護・介護などの支援職の方、表現者、言葉をお仕事にしておられる方が多くお越しになられます。
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執着って、それにこだわっているから別のものが選べないのじゃなくて、他に選択肢がないのでそこを死守するしかない状態なのかもしれないな、と思う。
動くことができるしなやかさと、別の選択肢があるということに気がつくと自然に外れていくことが多い。
手放すことは結果にすぎず、別のものを選べる能力が育った先に起こることなのかも。
コメントありがとうございます😃
そうなんです!生きてる限り、私たちは成長し続けることができるし、それは外から強要されるような「成長」ではないのですよね。
初めて自転車に乗れたときや歩くことができたときのように、自分の世界が広がること、自分に頼もしさを感じられるようなことが「成長」なんだと思います。
そして「正しいこと」は本当に曲者ですよね。「正しい」ってどういうことなのか、自分が何をしているのかが認識できていないと簡単に巻き込まれてしまうと感じます。
自分で自分のことをお世話して育てることが楽しくなってくると、人にどう思われるかということについてまた興味が薄くなってきたな、と思う。
昔は怒りを感じていた親が面倒を見てくれなかったということにもどんどん興味が薄らいでいる。自分でやった方がずっと心地よいのだから、人に求めるものが減るのだろう。
自分が自分の味方でいられるってこんなにも心強いことなんだなあ。
胸郭が深く緩む前が10とすると、すべてを拒絶する感覚が今は3とか4くらいになっている。
固定観念や世界観を点検しなおしていらないものは手放し、やっていた無駄な努力も減らしている途中。
今やっている大きなトピックのひとつは食。
母は「とにかく身体にいいから食べなさい」という人で食べきれない量の食事を作るし、何かが苦手だというと手を変え品を変え食べるまで出し続ける人だった。
私が食べ物の好き嫌いがないのはそういう母の努力のおかげだけれど、その反面身体に合わないものに対して鈍感という側面もある。
食べ物が残って痛ませてしまうことが繰り返される両親の喧嘩の原因だったので、食べ物を残すのもとても苦手で満腹の感覚が弱かったところがある。
これがだいぶ外れたので、ひとつひとつ「おいしい?」「食べたい?」「お腹すいてる?」と確認しながら今の私の「ちょうどいい」を探しなおしている。
面白いなと思うのは、こうやって地道に自分を育てなおすことを面倒というよりも、ささやかな喜びとして感じていること。
成長が止まってしまっていた幼い自分を丁寧にお世話して育てていくことは楽しい。
起こったことは既に完了してしまっているから、選択肢はない。
そこには「受け入れる」以外の選択はないのだなあ、とふと思う。
けれど、ときとしてそんな当たり前のことを受け入れることが本当に苦しく難しかったりする。
そんなときは受け入れられない自分を受け入れて、そっとおいておく。
今は受け入れられないんだね。
大丈夫だよ、と。
自分自身の行動の自由度を高めることが結果として他者の自由も尊重できる状態につながる。
「汝を愛するように汝の隣人を愛せよ」ができる人は「汝の隣人を愛するように汝を愛する」もできると、いい感じの愛の循環が生まれるのだろうと思う。
「その行動しか選べないのでそれをしている」のと、「他の行動も選べるけれどこれがいいからこれをしている」のとではそこで起きてくることが大きく異なる。
「これしかできない」という状態では、行動と結果がほぼ直結している。
だから、期待した結果が得られなければ困るし、相手にも期待どおりに動いてもらわなければならなくなる。
つまり、自分の行動の自由度の低さを、他者の自由度を制限することで補おうとせざるを得ない。
こうなると、意識して努力しなければ人間関係の中で自然にコントロールが発生し、衝突も生まれやすくなる。
けれど、ほかの方法も選べるなら、ひとつの行動にすべてを賭ける必要がない。
やってみる。
観察する。
うまくいかなければ変えてみる。
行動と結果の間にフィードバックの余地が生まれ、経験によって、そもそも何を望んでいたのか、どんな結果が望ましいのかという認識も変化していく。
行動と結果の間に遊びがあると、しなやかさと気軽さが生まれてくる。
そして、自分の行動に自由度をもつことができると他者にも自由度を残すことができる。
何か目的を遂行するときにこそ、余白・間、そして選択肢があることがとても大切なのだと思います。
他人の人生に注意を向けることと、他人の人生の操作責任を引き受けることは別のこと。
他人を気にかけてもいいし、助言してもいいし、手伝ってもいいと思う。
でも、コントローラーを持っているのは相手だということは忘れたくない。
小学生の頃、友達の家で一緒にファミコンをしていて、ゲームをしていないのにプレイヤー以上に必死になって喧嘩になることがあった。
他人の人生の操作責任を引き受けるって、そんな感じ。
「あー!そっち行っちゃダメ!」
「クリボー来てるって!」
「なんでジャンプしないのよ!!」
そしてゲームオーバーになったら、なぜか自分まで責任を感じる。
でも、ボタンを押してマリオを動かせるのは、自分のコントローラーだけです。












