人間の欲望は際限もないもので、あれもこれもと欲張ったところで、どうにもならぬことは知れている。一を得るためには、一を捨てねばならぬ。時間のことである。人生の持ち時間こそ、人間がもっとも大切に扱わなくてはならぬ財産だとおもう。
池波はフランスの町を歩いている時、レストランやカフェを見つけて選ぶのが実にうまかった。フランス語ができるわけでもないのに。「当たり前だろう。おれは七つのときから四十何年間、フランス映画を観ているんだ。それはフランス人の生活を四十年してきたのと同じなんだよ」(「男の心得」)
猫がいない家の中なんて考えられないよ。ことばの通じない小さな生きものが一緒に暮らしているとね、相手の気持ちを何とかして読み取ろうとして、つねに神経を研ぎ澄ませることになるんだよ。そういう細やかな心配りが男には大事なんだな。
海軍から復員して来た私が、浅草の一角に焼け残った家の二階を借り、祖母、母、弟と暮らしていたころ、「兄さん。氷を売ってるよ」と、弟が目を輝かせて、呆然と寝転んでいる私に知らせた。「そうか。よし」そのイチゴのシロップのかき氷を口へ入れた時、私は何とも言えぬ心強さをおぼえたものだった。
十八号台風の前後に、京都・大阪へ仕事に行った。そして、ひどい下痢にかかった。約半月の間、下痢に苦しみながら宝塚のホテルで仕事をした。司馬遼太郎さんに「そらあんた、台風下痢だ。いま流行中ですわ」と言われた。その夜、ハンバーグ・ステーキを思い切って食べたら、けろりと癒った。
〔たいめいけん〕の扉を開けて中へ踏み込んだとき、調理場の方からぷうんと漂ってくる芳香が、すべてを語っているようなおもいがする。この香りは、まぎれもなく牛脂(ヘット)の香りである。ヘットで揚げたてのカツレツ、その香りのよさ、歯ざわりのよさはまったくたまらない。
イノダのサンドイッチは、近頃流行の、まるで飯事あそびのサンドイッチではない。むかしのままの「男が食べるサンドイッチ」なのだ。ローストビーフ、野菜、ハム、カツレツ、その他のサンドイッチを弁当にして列車へ乗り込み、冷えた缶ビールとともに味わう楽しみは、何ともいえない。
ぼくは小説家になってからも演出の仕事をしてきたでしょう。それはなぜかというと、やっぱり多勢の人を使って一つの事を纏め上げていく、そして無事に初日の幕を開けるという事が、非常に小説家としての自分のためになるのね。千差万別の人間を使う訳だから。みんな一筋縄じゃいかない連中なんだ(笑)
政治と企業は「開発」の二文字をもって、何処も彼処も破壊して行く。これに一部の建築家と称する族が加わり、臆面もなく破壊に協力するのだから、たまったものではない。やがて近い将来に世界はまた、大きく変わる。その期、日本は生き残る活力を残しているだろうか・・・
昭和初期の牛屋の女中は、たしか給料がなかったと思う。店から出るものはほんの着物や足袋代ぐらいだったろう。あとはチップだ。どんな客でもチップをよこさぬ客はなかった。浅草の、ごく気軽に入れる牛屋でも、三十銭から五十銭はチップを出す。
日本は民主主義になって「自由」とやらを得たが、その「自由」という言葉の空しさを知ったばかりでなく、人びとの心は「詩情」を失って乾ききってしまった。人間という生きものがもつ矛盾は、つきることを知らない。得たものがあれば、必ず失うものがある。
