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すべての文芸が伝統の掉尾を飾るオマージュであるならば文芸はそのままひとすじの「道」であり、自我・個性の近代のさかしらなどそこでは意味がない。そのとき天才とは表現の先鋭ではなくして桃の花のさかりのその覆いのもとで遊ぶひと、そのまぶしい面差しであろう(保田與重郎調)。
ドストエフスキーの小説は、都会にあって誰かが目撃した「事件」なんだな。トルストイのそれは、「叙事詩」だと思う。アンナ・カレーニナの死は事件の結果ではなく叙事詩の帰結の感がつよい。だからアンナの死には明確な理由がない。トルストイの小説では、因果性が機能していない。
ドストエフスキーは、登場人物の関係を弛緩させたり緊張させたりして小説を動かしてる。だから〈劇〉的な小説といわれるんだな。ルカーチによれば、短篇小説の緊密な構成を長篇(ロマン)に持ち込んだのは、バルザックとドストエフスキー。しかし、これによって長篇本来の牧歌性が著しく削がれてしまった
オペラ、声楽ジャンルに限れば、バッハ<モンテヴェルディ、ヘンデルなんだよな。常識だと思うけど。バッハのカンタータは抹香臭くてイヤってひともいるだろうし。バッハやブックステフーデはたしかに崇高だけど、イタリアの快楽をともなう伸びやかさが、ない。あと、モーツァルトの真髄はオペラです。
『感情教育』や『パルムの僧院』って、要約できないんだな。純文学のなかでもより「純」濃度が高い小説は、要約できないのが特徴。『失われた時をもとめて』も(無理矢理)要約すると、バカみたいにあっけない話しになってしまう。『千夜一夜』もあれはエクリチュールの織物(テクスト)なんで要約意味なし
基本的に、大衆小説は、先行する純文学の技法を換骨奪胎または通俗化する傾向がある。
また、先行する騎士物語を純文学的に再話してみせた『ドン・キホーテ』とか。
大衆小説と純文学は切っても切れない関係です。
ドストエフスキーがラノベ的だという指摘は、話が逆で、ラノベがドストエフスキー的なんだな。バルザックやドストの、針の穴をスピードを落とさずに駆け抜けるような、強引なストーリーテリングをより現代的・通俗的・商業的に発展させたのが、ラノベの書法でもある。つまるところ西尾維新もドスト的。
ツルゲーネフの自然描写は、言語美をねらってるのでフローベールのそれに近い。それは、翻訳できない部分だろう。トルストイの自然描写は、言語を介して悟性に訴える、そのような美感が特徴だと思う。
(私はロシア語を解さないので、あくまで想像です)
#二作合わせて読まれるべき本
北原武夫『妻』
田久保英夫『薔薇の眠り』
慶應卒美男作家。そのオシャレ小説。「刺身をフォーク&ナイフで食べるような小説」と川端康成に揶揄(?)された北原と、ニンフォマニア(色情狂)の生態を現代詩的エクリチュールでとらえた田久保。早稲田作家にゃ書けないね💦
朝ドラ「ブラッサム」で宇野千代の(何番目かの)夫、北原武夫役はだれ?
ちなみに講談社版『北原武夫文学全集』第三巻の解説は、柄谷行人。柄谷は北原武夫を評価していた。追悼文も書いていたか?(記憶があやふや)
林芙美子の文学的歩みって、いかにして『放浪記』的世界を脱却するかの過程なんだな。だから最終的に「晩菊」の渋さに到達した。「女流」のかんむりを自身から取りたかったんだな。
「女流」のかんむりに頓着せずに作家活動つづけられた森茉莉こそ、異端であり稀有。
林芙美子や宇野千代のベスト作が、名誉男性的であることはもっと周知されていい。
『浮雲』は徳田秋声的世界だし、宇野千代の「刺す」も近松秋江的な恥をつきぬけた先の光景を描いている。
また、宮尾登美子はドラマ化で損(?)してるけど、ある意味で、日本自然主義文学を洗練・完成したのは彼女です。
わたしは、対位法のイロハもわからないので作曲そのものを云々できないんですが、たしかにシューマンは奏者を意に介してませんね。
ショパンが「ロマン派中の古典派」なのに対して、シューマンが「ロマン派中のロマン派」であるところも、バルトを虜にした理由でしょう。



