以前、大きなショッピングモールに入っているスポーツショップで息子へのプレゼントにサッカーボールを買ったら、空気がすぐ抜けてしまう不良品だったことがある。店に連絡して、交換してもらえることになったのだけど、ショッピングモールまで車で30分かけて行って、駐車場からけっこうな長距離を歩いて店に行って、自分で申し出て交換してもらう、というのがどうも解せなかった。店が不良品をつかまされた消費者に対する義務を果たしたようにはどうも思えなかった。じゃあどうすればいいのか、店の人に家まで来てもらうのかと考えたらそれもおかしい気がして、条件を呑んで交換に行ったけど、なんか気まずくてそれ以降その店は利用していない。この取引では私も、店も、メーカーも、みんな不幸になった。そういうことはあるものだ。くよくよしてもしかたがないことだ。
家を建てるときに「下水管の太さ」が、一回建設されてしまうとなかなか変えられないスペックだと思うのだけど、普通の家はどう決まるのか。なんか下水道に対して支払うお金の多寡で限界太さが決まるとか、あるいは一般的にまあこんなものだろうで決まっていたりするのか。お風呂の栓を抜く。たまっていたお湯が下水に抜ける。このときの速さは風呂桶の出口の太さや、その先の下水管の太さによると思うが、現状これがけっこう時間がかかり「いまから風呂を洗うぞ」というときに障害になる。今から家を建てるのであれば事情が許す限り太く、栓を抜いたらその瞬間にガボっと風呂全体の水が抜けるくらいに太くあってほしいと思うけど、それはやっぱりできない相談なのか。こうしておくと、水害のときにちょっと有利だったりしないのか。
ファインマンはいろんな独自記法を工夫した人で、たとえばsin、cos、tanのかわりにσやγやτを変形した√記号のようなもので表す表記法を考案して使っていた。よく使われている書きかたは必ずしも論理的ではなく、歴史的経緯にのっとった面倒な書きかたが一般的になってしまっていることがあって、それを改良する方法はわりあい簡単にさまざま考えられるのだけど、それがアイデアを超えて一般に使われるようになるためには、まずその提唱者が十分に尊敬されている必要があるという、あんまり科学の本質とは関係ない要素がどうしても必要だという気がする。たとえば数学上、物理学上の業績を上げ、誰もがその人に一目を置き、あなたほどの人がそう言うのなら使ってみるかという人が学者の中で多数派になって、ようやくそれが一般に使われるようになる。誰でも独自に考えた自分が正しいと思う記号や記法や用語を作りたいし新たな概念を表す新たな言葉を作りたいものだが、はなはだ不都合なことながら、尊敬されていない人が言っても絶対に定着しない。科学ってそうあるべきなのか、たぶんそうではないと思うが、でも現実そうなっているし、仕方がないことなのかもしれない。

