しまぱん奉行テキサス retweeted
これは韓国の話なんです。
徹底的にエロ表現を焼き尽くし、規制し、叩き潰した結果、そんな規制知ったことじゃないと大量エロ広告で客を引いた中国ゲームメーカーにシェアを奪われまくり、ゲーム会社の大量倒産が起きたんですよね。
しまぱん奉行テキサス retweeted
3年前から付き合っている彼氏と、また喧嘩。パソコンを買いに行ったんだけど、あまりにも知識がなさすぎてイライラした。
現代人ならメモリとストレージの違いくらい、最低限分かっておいてほしい。
しまぱん奉行テキサス retweeted
【エンタメ】BLが叩かれ始めてから「エ口に文句言うのやめない?ただのフィクションだよ?」ってフェミニストが言い始めてるの面白すぎるwww
femimatsu.com/article/521964…
しまぱん奉行テキサス retweeted
Replying to @ebi_kani_sc
胸の揺れに性的興奮を覚える人間がいるとしても、それを根拠にエロだと主張してしまうと公の場で胸が揺れるだけでわいせつ物陳列罪になってしまう
そしてこの思考ロジックをガチで実行しちゃったのがイスラム教
しまぱん奉行テキサス retweeted
エジプト、イエメン、モロッコ、イラク、レバノン、シリアがすべて元はキリスト教国だったと知ってびっくりしました。
そしてそれをイスラム教が征服したと知ってさらにびっくりしました。
1400年もの間、イスラム教徒は国々を征服し続けてきたんですね。
これでもなお「イスラム教は平和な宗教」「イスラム教は侵略しない」とか言っている人は歴史を勉強した方がいいと思います。
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【決戦前日、敵将に約束させた――吉川広家と毛利百十二万石】
1600年9月15日、関ヶ原。
南宮山には毛利一族の軍勢がいた。
毛利輝元は西軍の総大将。山上には毛利秀元らの軍が布陣していたと伝わる。だが決戦が始まっても、山の軍勢は戦場へ下りなかった。
その一角にいた吉川広家は、前日に徳川家康方と約束を交わしていた。
毛利の兵を戦わせない代わりに、毛利家の領地を守ってほしい。
この取引には、日付の残る証拠がある。
9月14日、本多忠勝と井伊直政、さらに福島正則と黒田長政が、それぞれ広家側へ起請文を出した。起請文とは神仏に誓って交わす約束の文書である。いずれも『毛利家文書』に残り、東軍との交渉そのものは同時代の記録で確認できる。
広家は1561年、吉川元春の三男として生まれた。
祖父は毛利元就。父の元春は小早川隆景とともに「毛利両川」と呼ばれ、毛利家の軍事を支えた。
広家には兄がいた。家督を継ぐはずだったのは長兄の元長である。
ところが1586年、九州攻めのさなかに父の元春が病死。翌1587年には兄の元長も亡くなった。
三男の広家が、急きょ吉川家を継ぐことになった。
広家は豊臣秀吉の政権下で出雲の富田城を拠点とし、朝鮮出兵にも従った。吉川家の領地は十万石を超え、毛利一門の重要な柱となっていた。
1597年には小早川隆景も死去する。
そして1600年、徳川家康と石田三成らの対立が表面化した。
毛利輝元は大坂城へ入り、西軍の総大将となる。
広家にとって厄介だったのは、輝元が毛利家を背負う当主だったことだ。広家が反対しても、本家の決定を簡単には覆せない。
毛利家中でも考えは割れていた。毛利軍はすでに西軍として動き、伊勢方面では戦闘にも参加していた。今さら家中のすべてを東軍へ転じさせることは難しい。広家は、関ヶ原での不戦を交渉の材料にしようとした。
安国寺恵瓊らは西軍に深く関わり、広家は黒田長政ら東軍の武将と接触した。
長政の父・黒田官兵衛も毛利家との交渉に関わっていた。両家をつなぐ使者が往来し、広家は家康側の意向を探る。
輝元は大坂城にとどまり、毛利軍の一部は関ヶ原方面へ向かった。
決戦前日、広家側に起請文が届く。
毛利の領地を安堵するという約束だった。
9月15日、西軍は敗北する。
南宮山の毛利勢は戦闘に加わらなかった。
「吉川広家が山麓で道を塞ぎ、毛利秀元が出陣できなかった」という話が知られる。秀元が「弁当を食べている」と言って進軍を断ったという逸話もある。
ただし、その場面を同時代の記録で直接確かめることは難しい。吉川家が後にまとめた記録には、自家の判断を正当化する事情もあった。江戸時代に編まれた軍記へ吉川家側が史料を提供し、広家の働きを強調した経緯も研究されている。
確かなのは、広家が東軍と通じていたこと。そして、毛利方の大軍が決戦で戦わなかったことである。
戦後、広家の予想は外れた。
家康は毛利輝元が西軍の活動に深く関わったと判断し、領地の没収へ動いた。
広家の内通によって毛利家を救うはずが、当主の家そのものが危うくなった。
家康は広家自身に周防と長門を与える案を示したと、岩国市の歴史資料は伝える。
だが広家は、自分が二国を受け取ることを望まず、毛利本家の存続を求めて交渉した。
結果、毛利家の改易は避けられた。
その代償は大きかった。
中国地方に約112万石を持った毛利家は、周防・長門の約36万9000石へ減封された。
広家も出雲富田の領地を失い、毛利本家から岩国三万石を分け与えられた。
家を守ったといえるのか。失うはずのなかった領地まで失わせたのか。
毛利家と吉川家では、この出来事の受け止め方が異なった。毛利本家から見れば西軍の敗北と大幅な減封が残り、吉川家から見れば改易を防いだという主張が残る。
広家は新天地の岩国で城下を整え、1608年には山上に岩国城を完成させる。
しかし1615年、幕府の一国一城令で城は取り壊された。
毛利家を残そうと東軍に交渉した男は、その後も毛利家の家臣という立場に置かれた。岩国は独自の領地経営を続けながら、正式に藩として認められるのは幕末になってからだった。
広家は1625年に死去した。
現在の岩国城は昭和に再建されたものだ。山上には当時の石垣の一部が残り、城を破却した跡も確認できる。
関ヶ原の八年後に完成させた城も、わずか七年で姿を消した。
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【雪山を越えて家康に会った男、肥後で迎えた最後――佐々成政】
1588年、摂津の尼崎に一人の武将が留め置かれた。
佐々成政。織田信長のもとで戦い、越中を治め、前年には豊臣秀吉から肥後の大部分を任された男だった。
成政は秀吉に釈明するため、肥後から上方へ向かっていた。しかし面会はかなわず、閏5月14日、切腹を命じられた。
肥後の領主となってから、わずか一年ほどの出来事だった。
成政は尾張の出身。信長に仕え、鉄砲隊を率いるなどして各地の合戦に参加した。
1575年の長篠の戦い、翌年からの石山本願寺との戦いでも働き、やがて柴田勝家の指揮下で北陸方面を担当する。
1581年には越中へ入り、上杉氏と戦った。
翌年、本能寺の変で信長が死ぬ。
成政は越中の支配を広げ、1583年にはほぼ一国を掌握した。しかし中央では羽柴秀吉が台頭し、かつて成政の上司だった柴田勝家を賤ヶ岳で破った。
成政はいったん秀吉に従い、越中の支配を認められた。
1584年、小牧・長久手で秀吉と徳川家康・織田信雄が戦う。
成政は初め秀吉方にいたものの、途中で信雄・家康方へ転じた。越中では秀吉を支持する前田利家と争い、9月には能登の末森城へ攻めかかった。
末森城を守るのは前田家臣・奥村永福。成政の軍は城を包囲したが、利家が援軍を率いて急行した。
背後から攻撃を受け、成政は越中へ退いた。9月13日付の利家の書状には、この勝利を秀吉に報告したことが記録されている。
その秋、秀吉は信雄と和睦し、家康も兵を引く。
越中に残された成政は、戦いを再開させようと家康のもとへ向かった。
厳冬の山越えである。
後に「さらさら越え」と呼ばれる旅は、雪に覆われた北アルプスのザラ峠を越えたと語られてきた。
峠には急な斜面や雪崩の危険がある。真冬に実際どの道を通ったのか、現在も複数の説がある。
ただし浜松まで行ったことは確かだ。
徳川家臣・松平家忠の日記には、1584年12月25日の条に「越中の佐々蔵助、浜松へ越し候」と記されている。
成政は家康に会った。しかし秀吉との戦いを再開させることはできなかった。
1585年、秀吉は大軍を率いて越中へ進む。
成政は倶利伽羅峠に置かれた秀吉の本陣へ出向き、降伏した。
越中の大部分を失い、成政に残されたのは新川郡などの限られた所領だった。
その後、妻子とともに大坂へ移り、秀吉に近侍するようになる。1587年には津田宗及の茶会にも出席していた。
秀吉は成政を再び用いた。
同年、九州征伐に従った成政へ、肥後の大部分を与えたのである。
隈本城に入った成政を待っていたのは、長年独自の領地を守ってきた国衆たちだった。
秀吉は国衆五十二人の所領を認め、急激な支配変更を避けようとしていた。検地も当面控える方針だったとされる。
しかし成政は検地を進め、彼らの所領や支配のあり方を改めようとした。
土地の生産力を調べ直せば、家臣への給地や年貢の取り方も変わる。秀吉から領地を保証された国衆には、到底受け入れ難い政策だった。
1587年夏、菊池の隈部親永らが武装して抵抗を始める。
一揆は周囲へ広がり、成政の兵だけでは鎮圧できなくなった。
秀吉は九州や中国地方の大名を動員した。
和仁氏らが守った田中城には大軍が押し寄せ、城兵は約二か月抵抗したと地元に伝わる。肥後の各地で城が攻め落とされ、多くの国衆が命を落とした。
検地を急いだのは成政だけの判断だったのか。家臣に与える領地を確保する必要もあったとされるが、政策の意図を一つに決めることは難しい。
それでも、秀吉が責任を問う相手は成政だった。
かつて雪山を越えて家康に会いに行った男は、今度は釈明のため秀吉のもとへ向かった。
しかし尼崎で足を止められ、命を絶つよう命じられる。
1588年閏5月14日、成政は切腹した。
宣教師ルイス・フロイスは、成政が最後に妻や娘、知人へ手紙を書いたと伝えている。その手紙は現在確認されていない。
成政の死後、肥後は加藤清正と小西行長らに分け与えられた。
尼崎の法園寺では、1927年に無縁塔の中から成政の墓塔が見つかった。
かつて越中を制し、秀吉に領地を奪われ、再び肥後を与えられた男の墓は、長いあいだほかの石塔に埋もれていた。
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Replying to @Goldenbell9
イスラム教では
ハラル(教義に則って処理された食品)食が基本だけど
なければ「そこにあるものを食べればいい」ってなってるのにね😓
しまぱん奉行テキサス retweeted
Replying to @Goldenbell9
「親切にしている人」を「人として弱いので懸命にサービスしている」
と解釈する文化圏はあります
日本の田舎にも残っている
しまぱん奉行テキサス retweeted
Replying to @yoshimurakana
ここでマイク・タイソンの言葉
「SNSのせいで人をバカにしても顔面を殴られない環境に慣れすぎている」
道端で喧嘩してるやつみたら無視するか通報するが、Xとかでは嬉々として横から口出すわ殴りに参戦する奴多いからね
そんな環境に慣れた化け物が量産されたらそりゃ化け物同士での争いになるわな























