これは絶対にそう。ワイは、英語が得意じゃなくて良かったすら思っている。
だって、最初からなに言ってるか理解できてたら、そんなに感動しなかっただろうなった曲ばかりだから。まず音。そっから言葉の順でいい。例え自分の中で湧いた感情と関係ない歌詞だったとしても、まったく問題ないわけだから。
これにはあの世の某上級国民も苦笑い。
【トラブル】男性をボンネットに乗せたまま約2キロ走行か、79歳女逮捕 「病院の時間が迫っていた」
news.livedoor.com/article/de…
女が車のドアを開けた際、 隣に止めてあった男性の車にドアが当たり、トラブルになっていたという。女は「運転を続けたのは、病院の時間が迫っていたから」と供述した。
記者会見を聞いた時のワイ
【史上初の『女性棋士』誕生へ】西山朋佳女流四冠
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西山朋佳 女流四冠
「私の中に最後に残ったのは、もっと強い方と戦いたい、これからもっと上を目指す戦いをしてみたいという気持ち」
「今回の決断は責任を伴うものだと思っております」
▼『女流棋士』と『棋士』はどう違う?
将棋界では、女性だけの『女流棋士』と、男女を問わない『棋士』は別の制度
西山さんはこれまで何度も『棋士』になるため挑戦
棋士の養成機関『奨励会』では、最後の関門となる三段リーグまで進出
2020年には14勝4敗と、昇段した2人と同じ成績を収めたが、前期の成績により3位となり、棋士には届かなかった
その後、公式戦の成績で受けられる『編入試験』にも挑戦したが、最終局に敗れた
▼新たに開かれた“3つ目の道”
当時、日本将棋連盟の会長だった羽生善治九段が提案したのが、女流棋戦の最高峰『白玲』を通算5期獲得すれば、棋士になれるという制度
西山さんは今月、その条件を達成
この制度を使う初めての棋士になる
▼『将棋は“男性のゲーム”という感じだった』
西山さんと同じく、奨励会で棋士を目指してきた中井広恵女流六段。女流棋士として、公式戦で初めて棋士に勝利したことも
中井広恵女流六段
「とても大きな女性としての第一歩だと感じています」
「(将棋は)男性のゲームだという感じでした。私が将棋を覚えて指しているときも、『女の子で将棋やっているんだ、珍しいね』という感じで、将棋人口が男性と女性で違いすぎていたので」
「師匠がよく言っていましたが、『女の子でも将棋を覚えたら才能があって強くなる子でも、将棋と知り合うきっかけがないと埋もれてしまう』」
競技人口が男女で圧倒的に異なっていて、中井さんも奨励会時代は女性ひとりだったという
西山朋佳 女流四冠
「女流棋界は50年以上の歴史があって、先輩の女流棋士の方々が、その歴史を積み上げてくれました」
「私自身も今後 、その到達点を塗り替えるような努力をする役割のある一人。今後も一局一局に全力を出せるよう、集中して挑んでいきたい」
事件後の記者会見。取材陣の質問も煽りがあって、何度かビート君も苛つきを見せそうになる場面もあったが、上手く返して「さすがだな」と、後追い世代のワイは感心した。
ちなみに、そんな酷い取材陣の中でも、声だけで推察するに、東海林のり子と前田忠明だけは、冷静に質問していて、それもさすがだなと思った。
今からちょうど40年前の12月、風邪をひいて学校を休んでいた。寝ていたら父が「おい!たけしが逮捕されたぞ」と怒鳴るように言い、テレビを見ると「たけし逮捕」のスーパーが画面に流れていた。
なぜビートたけしが『フライデー』を襲撃したのか。
引き金となった出来事
昭和61年(1986年)12月8日、東京都渋谷区の路上で、当時ビートたけし(北野武、当時39歳)と親密に交際していた専門学校生の女性(当時21歳)に対し、『フライデー』の契約記者が学校の校門付近で取材を試みた。女性が立ち去ろうとしたところ、記者が前方を塞ぎ、テープレコーダーを顔に突きつけ、腕を掴んで引っ張るなどの行為に及び、頸部捻挫・腰部捻傷で全治約2週間の怪我を負わせた。
このことを知ったたけしは激怒し、講談社に電話で抗議。「今から行ってやろうか」と通告したうえで、翌12月9日午前3時過ぎ、たけし軍団のメンバー11人とともに講談社本館の編集部に乗り込んだ。話し合いがまとまらず(編集部側の対応や挑発的な言動もあったと後に語られる)、乱闘に発展。傘や消火器などを使って暴行し、編集部員らに怪我を負わせ、現行犯逮捕された。
背景にあった蓄積された怒り
直接のきっかけは交際していた女性への取材だったが、それ以前から写真週刊誌の過熱取材が続いていた。たけしの家族(当時の妻・北野幹子さんら)に対する執拗な取材があり、特に子供の私立小学校受験時に写真を撮られ、学校側から「週刊誌に載るようでは入学させられない」と断られた。
当時は『フライデー』『フォーカス』『フラッシュ』などの写真週刊誌がスクープ競争を繰り広げ、「FFF現象」と呼ばれるほど取材が過激化していた時代である。芸能人だけでなく一般人の家族までが標的にされていた。
たけし自身は後に「マッチの軸と先」に例え、女性への取材が「火」だったものの、それまでの家族への取材による鬱憤が蓄積されていたと話している。また後年の発言では、以前親しくしていた記者がスパイ的な動きをしていた疑念もあったとも語っているが、裁判上の主な動機は「過度な取材に対する抗議」とされた。
たけしは昭和62(1987)年6月に東京地裁で懲役6か月・執行猶予2年の有罪判決を受け、約7〜8か月の謹慎後に『ビートたけしのオールナイトニッポン』から芸能活動を再開した。当時の官房長官・後藤田正晴氏が「写真週刊誌の取材のいきすぎもあり、ビート君の気持ちはよくわかる」と発言したこともあり、当初はたけし擁護の空気が強かった一方で、暴力そのものへの批判もあり、報道倫理やプライバシーの問題が大きく議論された。この事件は、写真週刊誌の過激取材がやや沈静化する契機の一つとも言われている。





























