池田ふぶく retweeted
僕は正直、『みいちゃんと山田さん』は見たくないです。
でも、「アニメ化するな」と強いる権利はありません。
この作品は、「みいちゃんが殺されるまでの12か月」を、最初から予告して描くもの。
作者は、みいちゃんの死を冒頭に置いた理由を、読者に最後まで読んでもらうためだと語っています。
人の悲惨な人生を、「続きが気になる」に変えて読ませる。
悪趣味ではないか。
人の不幸を見せ物にしていないか。
そう感じないと言えば嘘になります。
だからこそ、作者の言葉を調べました。
ただ刺激を与えたかったのか。どうしても伝えたいものがあったのか。
作者が語っていたのは、障害福祉の啓発ではなく、「訳ありな人たち」のヒューマンドラマを描くことでした。
登場人物を嘘のない人間として描き、読者に、身近な誰かや自分との共通点を感じてもらう。
作者の言葉を読むと、一本の馴染みのある意志が見えました。
真実を伝えたい。
嘘は書きたくない。
そのために、最後まで読ませる。
なるほど、僕と同じじゃないか、と。
だからと言って、僕はこの作品を見たいとは思いません。
人の悲惨さを娯楽として受け取る気にはなりません。
それでも、作者が自分の真実を届けようとしたことは、守りたいと思いました。
無論、作者の意図がどうであれ、この作品を止める権利は、僕にはありません。
作品を批評することはできます。嫌なら見ないこともできます。
僕が踏み越えてはならない線は、
「僕は不快だ」から、「だから描くな」「世に出すな」へは進まないこと。
作品を批評することと、作者から表現する資格を奪うことは違います。
自分の嫌悪を通すために、作品を描かれてはならないものへ、作者を描いてはならない人間へ変えた瞬間、批評は作品を離れ、他者を支配する傲慢な命令に変わります。
創作者として伝えたいことがあるなら、人は誰かに何かを強います。
物語は読者を立ち止まらせ、見たくないものを見せ、考えたくないことを考えさせる。
このポストも同じです。
僕も今、これを読んだ人に、アニメ化を止めることの意味を考えるよう強いています。
創作者の自由を尊重せよ、と。
だから、何かを強いること自体を罪にはできません。
越えてはならないのは、自分の主張を通すために、相手の自由を踏み躙ることです。
僕は、このアニメを見ません。
見ない自由は、僕のものです。
作者が描いたものを、見たい人へ届ける自由は、作者のものです。
その権利は、誰にも侵せぬ聖域です。
『みいちゃんと山田さん』2027年にアニメ化が決定。累計発行部数280万部を突破した話題作
news.denfaminicogamer.jp/new…
2012年の歌舞伎町を舞台に、キャバ嬢の山田さんと何をやっても“ちょっと足りない”新人・みいちゃんを巡る12か月を描く。原作者・亜月ねね氏のお祝いイラストも公開
元気先生のポストをきっかけに、科学を一般向けに紹介する「サイエンスキュレーター」や、専門家として情報発信する人の責任について、さまざまな意見が出ています。確かに指摘されていることは正しかったりもするのですが、違和感を感じる部分もある。
これは自分なりの意見なのですが、まとめさせてください。
科学に関する情報を発信する以上、できる限り正確であるべきです。自分の専門分野と専門外を区別し、根拠を確認し、不確かなことを断定せず、間違いが見つかったら訂正する。
それを仕事として報酬を受け取るのであれば、なおさら責任が生じます。
しかし、その指摘が発信内容の間違いを指摘することと、その人の能力や人格そのものを否定することが、混同されているように見えることは大きな問題かと思います。
テストの答えを間違えた人に、「ここは違うよ」と教えることと、「こんなことも分からないなんて、お前はアホ」と言うことは、同じではないということです。
専門性には、学位や資格、研究歴、職歴、実績など、さまざまな尺度があります。言ってしまえば、誰でも自分で専門家を名乗ることはできますが、実際にどの程度信頼されるかは、長い時間をかけた仕事や発言の積み重ねによって、結局は、周囲から評価されていくものだと思います。天才と自称するとカッコワルイの理論です。
ただし、長く活動していることや、仕事として成立していることが、内容の正しさを自動的に保証するわけではありません。誤った情報でも、刺激的で分かりやすければ広まることがあります。
だからこそ、発信する側には、根拠を示し、批判を受け止め、必要があれば訂正する姿勢が求められます。
同時に、専門能力と人格全体も分けて考える必要があります。
学位が高いから人格も優れている、資格を持っているから人間としても正しい、ということにはなりません。ニュースを見れば、高い専門性を持ちながら、横領やハラスメントなどの問題を起こす人がニュースを騒がせているのは誰でも記憶にあるでしょう。大学にどうしてコイツ教授やってんだ・・・ってスゲエのを見た記憶は多くの人にあるかと思います。
一度説明を間違えたからといって、その人の過去の仕事や人間性まで、すべて否定してよいわけでもありません。
もちろん、捏造や盗用、利益相反の隠蔽、意図的な虚偽などは、単なる間違いとは別です。そうした行為は専門家としての信用にも直接関わります。
ニセ科学や陰謀論は論外ですが、本人が意図的に人をだましている場合だけが問題なのではありません。本人に悪意がなくても、根拠の弱い話を断定し、反証を拒み、都合の悪い証拠を無視し続ければ、結果として多くの人を誤らせることになります。
大切なのは、発信者の肩書や人格を先に決めつけるのではなく、
「どのような根拠を示しているか」
「不確実性をきちんと説明しているか」
「反対の意見にも向き合っているか」
「誤りが分かったときに訂正できるか」
を見ることだと思います。
個人が、あらゆる分野について、最初から一度も間違えずに情報発信することは困難です。
だからこそ論文にも査読がありますし、査読を通過した論文であっても、後から誤りが見つかったり、撤回されたりします。科学は、誰か一人が絶対に間違えないことによって成り立っているのではありません。
多くの人が検証し、批判し、修正することで、少しずつ確かさを高めていくことこそを科学と呼んでいます。
SNSで「ここは間違っているのではないか」と指摘されることも、本来はその仕組みの一部でしょう。
指摘を受けた側が確認し、間違っていれば、
「気づきませんでした。ありがとうございます。訂正します」
と対応する。
指摘した側も、訂正されたのであれば、それ以上に相手を侮辱したり、勝ち負けの話にしたりしない。
それでよいのではないでしょうか。
相手が間違っていたからといって、見下したり、嘲笑したり、人格まで否定してよい理由にはなりません。誤りの訂正を、他人に優位性を示すための材料にしてしまえば、科学のための議論ではなく、承認欲求を満たすための攻撃です。そうした攻撃がまかり通ることを最も懸念しています。
自分が他人を厳しく否定するほど、「自分も同じように否定されるかもしれない」という恐れは強くなります。
誰もが「専門家なのだから一度も間違えてはいけない」「間違えたら大勢から攻撃される」と考えるようになれば、発信する人そのものが減ってしまいます。
その結果、研究者や技術者、医療者、教育者など、本来は多くの知識を持っている人たちが、一般の人に向けて話すことを避けるようになることがもっとも良くないことかと思います。
中には注意の指摘を拒絶し、根拠を示さず、批判した人を次々とブロックしまくる発信者もいるでしょう。その態度もまた、その人の信用を形作る一つの要素になります。
サイエンスキュレーターの役割は、すでに科学に詳しい人だけに向けて、高度で完全な解説をすることではありません。科学に興味のない人や、これから勉強を始める人に、
「これは面白そうだ」
「もっと知りたい」
「理科を勉強してみたい」
と思ってもらうための入口を作ることの専門家です。
入口を作る仕事では、専門外の分野に触れることもあります。そのため、理解が不十分だったり、説明を間違えたりする危険はかなり高い。もちろん、間違いを放置してよいわけではありません。
自分の専門外であることを明らかにする。可能な限り専門家に確認する。出典を示す。誤りがあれば、訂正したことが分かる形で直す。
そうした責任を果たすことと、間違いを恐れすぎずに科学の面白さを伝えることをされている人はちゃんと多くの人に届いてるからこそ、続けられているのかと思います。
薬理凶室も、それぞれの分野で専門性を磨いてきた人たちに協力をお願いし、できる限り公共性のある、科学に興味を持ってもらえるコンテンツを作ろうと活動しています。
個人を中心とした集まりである以上、すべてを完全に確認することには限界があります。自分自身も過去に理解を間違え、後から訂正したり、世情と合わなくなったものを非公開にすることもあります。
それでも、誤った知識を意図的に広めたり、自分たちの利益のために科学的事実を歪めたりしないこと。そして、明確な間違いが分かったときには訂正するように努力しています。
集団として活動する以上、個人が集団の利益を損ねる行為を重ねたり、それが指摘されても改善されない場合には、運営責任として、一緒に活動を続けられないと判断することもあります。
科学的な情報発信は常に情報の妥当性や正確性との戦いかと思います。
必要なのは、絶対に間違えない人を探すことではありません。絶対に間違ったことを言わない人はは問題は起こす可能性は低いですが、誰の心にも刺さらず、誰にもそのジャンルの面白さを届けることができないでしょう。
間違いを検証できること。
誤りを訂正できること。
批判する側も、される側も、人格攻撃に逃げないこと。
そうした環境があってこそ、科学について安心して発信し、学び合うことができるのではないでしょうか。
もっと多くの人が、過度に恐れることなく「科学は面白い」を発信して欲しいと切に願ってます。
そして、その発信をきっかけに、科学に興味を持ち、理学の道に進む人が少しでも増えてほしいです。
池田ふぶく retweeted
代数幾何以前に持ち合わせている、環論とか層論から来る代数的直感と、初歩的な manifold 論から来る幾何的直感が、どっちも微妙に役に立たないうえに、divisor 自体はあらゆる形態を持ってあらゆる直感を要求してくるので、きびしい
池田ふぶく retweeted
春から大学生になる方で、数学書を読む可能性があるのであれば、ぜひ竹山先生の『数学書の読みかた』を読んでほしい。
「数学書を読むときの暗黙知」が、これ以上ないほど明晰に言語化されているから。
池田ふぶく retweeted
採点官から嫌われるのは勿論のこと、大学以降の発表や学会でこんな変わったノーテーションを使うやつキモいだけなので百害あって一利しかない。普通にsin,cosで書いとけ
This Post is from an account that no longer exists. Learn more
池田ふぶく retweeted
数学の研究室選択の基準で「人間関係」とかいうあり得ない基準を持ってきている投稿を発見し驚愕.
自分が何をやりたいか,それだけだろ.完全に自分と感覚が合う他人なんていないわけだし,そういう合わない人とも何とかやっていくもんだろ.大学3年というガキとは言えない年齢にもなって.
























