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#NewPublication
The Making of the Arabic Book,
Sarah Bowen Savant et al. Edinburgh University Press, 2026
Volume 1
How Text Reuse Built a World Tradition
edinburghuniversitypress.com…
Volume 2
Writerly Practices, Memory and Communities
edinburghuniversitypress.com…
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某大学院で担当している中東・イスラーム研究の授業、第5回の紹介です。テーマはマムルーク朝(1250-1517年)における聴講記録。第3回からの問い「人名録はアーカイヴか」に戻る回でした。読んだのは Aljoumani & Reier 2024、Arberry 1951、サハーウィーの al-Iʿlān(Rosenthal 英訳)です。🧵
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#国立新美術館 で開催中の #ルーヴル美術館展 の出品作、《ヴェネツィア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督》(1511年頃)の、マムルーク朝治下のシリアの人々が身に着ける衣装や、町の建物、前景の動物の、異国情緒あふれる表現については、noteに解説記事を書いています👇note.com/art_history_ch/n/nf…
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Livingston 2025 序章は、アーカイヴ論的転回以後の議論を整理し、現存のコレクション自体が偶然の産物だと指摘します。ガウリーのワクフ・アーカイヴは、オスマン朝の征服直前に構成されたために「凍結」されて残りました。そのため、後期マムルーク朝についての理解はガウリーの活動に偏っています。
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これがまだノルマンディー以降の西部における地上戦があるならまだわかるんですが、グランツはレンドリースだけでなく、英米連合軍による北西ヨーロッパでの地上戦もないとした上でも、12-18か月の遅れで済むとしているんですよ...
彼の論理としては
①1941~42年のレンドリースは勝敗を決めるほどではなかった(これは妥当と言って良いでしょう)
②42年以降の反攻においてレンドリース無い場合、攻勢が早期に停止し、包囲から脱出するドイツ軍の数が増え、攻勢準備にかける時間が増える
③その遅延と損害が増えても、12-18ヵ月の遅延でソ連の最終的な勝利は変わらない
というものなのですが、問題なのは
「輸送力が減れば攻勢が遅れる」
から、直ちに
「時間をかければ勝利に到達できる」
とは言えない以上※
・「時間をかければ勝てる」ためには、第一線の野戦軍には攻勢の為の物資に加え、日々の戦力維持のために莫大な輸送量を必要とするが、ソ連単体の機関車や自動車の生産量がそれを満たすことが出来たのか
・史実の西部戦線で消滅した精鋭装甲軍団や、包囲を逃れた部隊で戦力バランスが変化することで、攻勢はどれほど難しくなるか。
・レンドリースを国内生産で代替する場合、その代償として何の生産が犠牲になるか
・占領地の解放が遅れ、農地・人口・産業の回復も遅れる影響はどれほどか。
・長期化による追加の食料消費と人的損失に、ソ連が耐えられるか。
のような問に対して何かしら根拠を伴う実証が必要だと思うのですが、彼はこの12-18ヵ月の遅延の根拠をなにも示していないのです。
そもそも、グランツのレンドリース評は、彼が取り組んでいた冷戦崩壊後の東部戦線再評価論のほんの一部にしか過ぎないわけで、そこまで絶対視するものではないというか...
※例えばガダルカナルやニューギニア戦線で、日本陸軍が作戦開始までもっと兵站準備に時間をかければ戦役に勝利できたのかというとそうではないわけで
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AI学習に伴う古本の大量破棄で思い出したけど、昔、エジプトの官営印刷所でも、古いアラビア語写本が大量に捨てられていたらしい。
校訂と印刷が終われば、原本はいらなくなるから。たとえば『千夜一夜物語』のブーラーク版の原本もこれで消失している。
ここでの謎は、「なぜ馬を走らせながら上方の的を狙う」という実戦ではまずないシチュエーションの競技・練習法をやっているのかという話で、いっそのこと「そういう競技だから」で納得した方がいい節まである気もします。
Replying to @doko6451
カバク競技が、なぜ上後方を射る競技なのかはよく分かっていないのですが、
動作が馬上から飛ぶ鳥を射るための練習法に類似していることや、柱に据える的に小鳥やその模型が仕込まれることがあったことから、馬上での鳥狩りに関係があるのではなんてことも言われています。
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旗代屋氏が以前に書いていただいた騎士には大規模な弓騎兵が発達しなかった話は、皇軍と違い侍に弩が普及しなかった理由と根っこは似ているような気はするんですよね。
note.com/hatashirorz/n/n40a1…
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聖マルコ兄弟団(Marxbrüder)
15世紀から16世紀にかけて、神聖ローマ帝国で活動したドイツの剣術ギルド。創設はニュルンベルクであり、「我らの貴婦人にして純潔の乙女マリアと、神聖にして勇猛なる天上の君子、聖マルコの兄弟団」という長大な名称を持つ宗教的色彩の濃い兄弟団だった。後に本拠地をフランクフルトに移した。守護聖人は福音記者マルコであり、聖マルコの象徴である有翼の獅子をシンボルとした。創設には、当時の著名な剣術家であるハンス・タールホファーが関与していたと考えられている。
1487年8月10日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が聖マルコ兄弟団に対し「長剣の達人」(Meister des langen Schwerts)という称号の独占使用を認めた。これにより、聖マルコ兄弟団は単なる宗教的兄弟団から、剣術を教える同職組合(ギルド)としての地位を得た。「長剣の達人」の称号は、ランツクネヒト(特に両手剣を扱う倍給兵)にとって大変に重要であり、聖マルコ兄弟団の威信を高めた。
聖マルコ兄弟団の構成員は大半が職人や手工業者であり、フランクフルトで年に1〜2回会合を開き、団長(Hauptmann)を選出した。公共の剣術興行(フェヒトシューレ)を開き、技を見せ、弟子を取った。教える武器は両手剣だけでなく、デュサック(片刃剣)、槍、クォータースタッフ、レイピア、幅広剣など多岐に渡った。剣術の基本は、14世紀後半のヨハネス・リヒテナウアー流だった。
聖マルコ兄弟団の活動は、16世紀後半に入ると当初の宗教的相互扶助から「ギルドとしての権利擁護」へ重点が移っていった。常備軍の成立や戦争の変化に伴い、17世紀後半以降は徐々に影響力を失った。
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トワルィシュ・パンツェルヌイ(Towarzysz pancerny)
16世紀から18世紀の期間、ポーランド・リトアニア共和国で運用された中騎兵。リトアニア側ではペティホルツィ(petyhorcy)と呼ばれた。
兵科名は「鎧の戦友」を意味し、着用した鎖帷子(pancerz)に因む。ポーランド黄金時代を象徴するのが有翼重騎兵と呼ばれるフサリア(husaria)だが、そのフサリアを補完する存在としてフサリアに次ぐ重要な騎兵種だった。フサリアが貴族や富裕なシュラフタで構成されていたのに対し、パンツェルヌイは中下層のシュラフタで編成された。
パンツェルヌイは鎖帷子もしくはベフテル(小札鎧)を着込み、トルコ式の複合弓とシャブラ(サーベル)、短槍、拳銃などで武装していた。フサリアが長槍(コピア)で突撃する際の側面を支援し、包囲や追撃、掃討など幅広い任務をこなす万能型の騎兵だった。
近年では、ポーランド黄金時代においてフサリアが「戦場の華」とするならば、パンツェルヌイは実際の戦場で「汚れ仕事」を担ったと評価されている。
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ヴァツワフ・パヴリシャク「ヘトマンの近衛」
17世紀のフサリアを描く。腰にシャブラ(サーベル)、鞍にコンツェシュ(刺突剣)、右手に片手斧を持ち、トルコ式の複合弓を携える。
17世紀にはパンツェルヌイ出身者がフサリアに登用される機会が増え、個人的に複合弓を携行する者が存在したという。
トワルィシュ・パンツェルヌイ(Towarzysz pancerny)
16世紀から18世紀の期間、ポーランド・リトアニア共和国で運用された中騎兵。リトアニア側ではペティホルツィ(petyhorcy)と呼ばれた。
兵科名は「鎧の戦友」を意味し、着用した鎖帷子(pancerz)に因む。ポーランド黄金時代を象徴するのが有翼重騎兵と呼ばれるフサリア(husaria)だが、そのフサリアを補完する存在としてフサリアに次ぐ重要な騎兵種だった。フサリアが貴族や富裕なシュラフタで構成されていたのに対し、パンツェルヌイは中下層のシュラフタで編成された。
パンツェルヌイは鎖帷子もしくはベフテル(小札鎧)を着込み、トルコ式の複合弓とシャブラ(サーベル)、短槍、拳銃などで武装していた。フサリアが長槍(コピア)で突撃する際の側面を支援し、包囲や追撃、掃討など幅広い任務をこなす万能型の騎兵だった。
近年では、ポーランド黄金時代においてフサリアが「戦場の華」とするならば、パンツェルヌイは実際の戦場で「汚れ仕事」を担ったと評価されている。
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【今知った】「マンゴネル」はオナガー(古代のねじりバネ式投石機)の中世版だと思っていたけど、実際には中世にはその形式は廃れていて、マンゴネルとはあくまで人力で引く形のトレビュシェットの一種を指す言葉だったとな。どうも18世紀あたりから誤解されて広まってしまったらしい
・槍の穂先、メトロポリタン美術館
マムルークの主力武器の割に現存数が少ない槍の貴重な例。(他だとトプカプの槍くらい?)
ソケットで柄に嵌めるようになっており、同時代の軍事書でも推奨される形式。
例の如くオスマン朝で保管されたもの。
metmuseum.org/art/collection…
(14/n)
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複合弓(コンポジットボウ)の製作には膠(にかわ)が不可欠であり、主に牛・羊・山羊・鹿などの皮から取れる皮膠、動物の腱を煮詰めて作る腱膠、そして魚の浮袋から作られる魚膠などが用いられました。
これらのうち、チョウザメの浮袋から作られる高純度の魚膠は、接着力と柔軟性が極めて高く、乾燥後の耐可塑性・耐湿性にも優れているため、複合弓の製作に重宝されました。特にモンゴル中央部の一部地域は湿度が高く、連日雨に見舞われることもあったため、そうした過酷な環境に耐えうる接着剤が必要とされました。
幸いにも、素材となる可哀想なチョウザメはモンゴルの多くの地域に豊富に生息していたため、現地の弓師たちによって盛んに利用されることとなりました。
中国の四川省成都にあった弓店「長興弓舗」では、満州弓(清弓)の製作に「魚膠」と呼ばれる魚のニカワが使われていました。魚膠は魚の浮き袋や内臓などを煮詰めて作られる接着剤で、強い靭性と粘り気を持ち、弓の各部を貼り合わせるために欠かせない最高級の材料とされていました。一方で「牛膠」も用いられていましたが、接着力や粘りでは魚膠に劣るため、あまり重要ではない部位の接着に限られていました。
満州弓は、清朝時代に満州族によって発展した伝統的な複合弓(コンポジットボウ)であり、木材・牛の角・牛の腱を接着して作られます。一般に、こうした複合弓は湿気に弱いとされています。しかし、長興弓舗が存在した成都の年間平均湿度は76.0%に達し、日本の鹿児島(72.0%)をも上回る高湿度の地域です。このことから、当時の弓職人たちは弓にとって非常に厳しい環境の中で、優れた素材選びと高い技術をもって満州弓を作り上げていたことが窺えます。
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弓の産地による形状の特徴は、単に並べただけでは違いが分かりにくいため、今回は江戸勢を赤色にして他の弓と重ねて表示してみます。
上成りの湾曲は、高いのが江戸勢、中ぐらいなのが京勢、低いのが尾州勢。
下成りの湾曲は、低いのが紀州勢と尾州勢の特徴です。
握りは、非常に強いのが薩摩勢。
江戸勢は、目立った癖はなく、全体的には京勢とほぼ同じですが、「中心」の位置がやや上寄りになります。
尾州勢は、弦音を良くするため、鳥打の上部に反りを持たせています。
薩摩弓は、京弓とは対照的に、非常に丈夫であることが第一の特徴と言われています。










































